釈迦苦行像再会の旅

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 2020/05/06 Var2

 1984年5月、当時池袋にあった西武美術館で開催された「パキスタン・ガンダーラ美術展」で 「釈迦苦行像」と出会いました。その像にそれまでに受けたことの無い強い感動を受けました。池袋が通勤路上であったこともあり開催期間中に5、6回は見に通いました。そして最後まで初めに見たその感動が今に至るまで変わることはありません。
 1996年10月、パキスタンへその「釈迦苦行像」と再び会うために10日間の旅をしました。

「釈迦苦行像」はガンダーラで造られた世界的に有名な仏像彫刻です。展覧会は約5ヶ月間にわたり東京・大阪・福岡を巡回し、多くの仏像や遺物と共に展示されました。 「パキスタン・イスラム共和国」は偶像崇拝を否定するイスラム教の国です。しかし「釈迦苦行像」はパキスタン第一の国宝とされています。そして国外には持ち出すことは出来ないとされています。しかしこの時は所蔵するラホール博物館改修費用の捻出のためだった様ですが、例外的に日本に貸し出されました。

 つまりこの「釈迦苦行像」に再会するためには、私がパキスタンに行くしかなかったのです。以下はその再会記です。

T)苦行像との再会

   10月25日(金)
12時の成田発・北京経由のパキスタン航空機でパキスタンの首都イスラマバードに向った。
 中継地の北京からは白い帽子をかぶった中国のイスラム教徒の人達が沢山乗り込んできた。メッカへ巡礼に向かう人達だそうだ。機上からはシルクロードの砂漠上空で細い線状に見える万里長城(多分?)が望めた。

 同日の20時過ぎ(日本との時差(-)4時間)に降り立ったイスラマバード空港から外に出た時に、クアラルンプール空港と同じだナ!と思った。かって仕事で何度か行ったことのあるマレーシアと同じイスラムの国の臭いを感じた気がしたからだ(外国人は日本の空港で魚の臭いを感じるするそうだ)。
 日本で紹介をされたパキスタン人S氏の弟のGさんと彼の友人が案内をしてくれて、自分一人だけでは出来ない旅をすることができた。その日はGさんが軍の司令部が近くなので安全な地区だと選んでくれた、イスラマバード近郊のラワルピンディーのホテルに入った。


「ホテルの向かいの軍施設」









 26日(土)
朝から直ぐにでも目的地のラホールに向かいたいところだったが、国内各地での大ストライキが計画されていて国内線の航空券予約が直ぐに取れなかった。結局2日後の28日昼の予約が取れてラホールへ移動することになった。
 その為、Gさんの車で先ずタキシラ博物館を訪れ、世界遺産タキシラの「シルカップ遺跡」「ダルマラージカ・スツーパ(仏塔)」などを見て回った。

 27日(日)

 この日は大ストライキの当日なのだがイスラマバード市内と、博物館や、シンボルの白く大きなモスクに行き、入口で手足を洗い裸足で中に入り見たりした。


「ファイサル・モスク」










 28日(月)
 博物館のあるラホールへ出発の日だ。11時前に搭乗して座席で待っていると時間になっても出発しない。すると全員降りるようにとアナウンスがあり、預けた手荷物が滑走路上に一列に置かれていた。荷物の数が1つ合わないのだそうだ。各自が自分の荷物を持って確認するようにと指示が出た。爆弾テロを警戒しての事だったそうだが、その結果がどうだったのかの説明は特に無かった。1時間以上遅れで飛行機はイスラマバード空港を飛び立った。

 イスラマバードもラホールも空港内には銃を持った兵士だらけで、この時に改めてインドとの臨戦状態にあるパキスタンの緊張を感じた。

「ラホール国際空港」


 パキスタン第二の都市ラホールのホテルには午後3時過ぎに入った。その日は遅くなってしまったので博物館には翌日に行くことにした。
予定では1日目の午後は下見に当て、計3日間博物館に通うつもりでいたのだが。










 29日(火)
ラホール博物館はイギリス植民地時代に造られた立派な構えの建物だった。
ここでも 入口で銃を持った警備員の金属チェックを受けて入館した。それでも気軽に一緒の写真に入ってくれた。


 先ず一番に「釈迦苦行像」が展示されているガンダーラ室に向かった。12年振りに再会した「苦行像」は展示室のケースの中央に座っていた。像は記憶よりも小さく厳しさも少なく穏やかな感じがした。それは全体に少し暗めの展示室の照明効果のためもあったと思うが、私は彼が自分の家に帰って穏やかにしているのだろうナ、とその時に思った。 12年前の西武美術館では一体だけ別に展示され、その厳しさを意識した効果のスポットライトに浮かび上がっていた。Kugyouzou01


 その瞳の有無が気になっていた。「苦行像」の眼窩にマグライトの光を当ててみて、確かにその奥に瞳が小さく彫られていることも確認した。





 日本の博物館と違い撮影禁止ではないので(入館時に撮影料を別に払ったかも知れないが)早速写真を撮り始めた。しかしケースのガラスに光が反射する。それを考えて準備してきた偏光フィルターをホテルに忘れてきていた。
そこでこの日は「苦行像」は下見する程度にして、翌日ユックリと撮影をすることにして他の展示室の方を先に見てしまうことにした。

ガンダーラ室には「苦行像」の他にも日本では見られない、破損が殆ど無い立派な釈迦や観音の「三尊像」などが多く展示されていた。ケースには入っていない物も多い。勿論ガンダーラ関係だけでなくイスラム関係の展示品が最も充実している感じだ。その他ヒンズー教やインダス文明などの興味深い品々が多く見られた。

 
館内には西欧人の見学者も何人かいたが、写真を撮っていると地元の高校生らしい学生が何人も話し掛けてくる。
どこから来たか?”、”日本からだ”、日本は美しい国だ、パキスタンをどう思うか?”、”良い国だと思う”(それまでに特に悪い印象は何も無かった) などなど・・・



 

 30日(水)
 翌日はGさん達に2日間も博物館に付き合わせては悪いので、私一人で朝の開館時間に合わせて博物館に向かった。

 途中、町中にアメリカ製の「F86戦闘機」の実物がモニュメントして展示されていて、パキスタンがインドと緊張状態にあり、又当時アメリカの同盟国でもあることを実感した。









 ところが博物館に着き時間になっても門が閉まったままで開かない。
私は途方にくれて通り掛かった学生らしき若者に "今日は何か特別の休みなのか”と聞いてみた。 すると彼は "今日は休みの筈だ”と案内板の前に連れていってくれた。
  アー!!すると確かにそこには休日が「毎水曜・第1月曜」と書いてあるではないか。

 何でこんな事になったかというと、この旅の計画段階から訪れる日に博物館の休館日がぶつからないようにと休日を調べてはいた。パキスタン大使館に問い合わせると正確にはわからないとのことだった。そこでS氏にも聞いてみると”パキスタンでは金曜日が宗教上の休日なので、博物館も金曜が休みの筈だ”と言われていたのだ。そのために金曜が休みだと思い込んでいて、前日も立っていた案内板の前を通り過ぎ読んでいなかったのだ。




 その学生に日本からこの博物館を見る為に来たと話すと、何と彼は博物館の裏口に回り”特別に見せてやってくれ”と云うようなことをわざわざ掛け合ってくれている。勿論そんなことは出来なかった。お礼を言うと彼は学校へと去っていった。もし自分ならば困っている外国人に話し掛けられて、博物館と掛け合うというあれ程までの事が出来るだろうかと感謝した。

 予定ではその日にラホールからイスラマバードに戻ることになっていた。滞在を余程もう一日延ばそうかとも思ったが。仏像の発祥の地とされるガンダーラの中心地だったペシャワールへもぜひ行きたかった。帰りの飛行便の予約変更が出来るかが分からないこともあり諦めることにした。
結局、その夜の飛行機でラホールからイスラマバードに帰りラワルピンディーのホテルに戻った。

 博物館の休館日は現在ならWEBサイトで直接確かめることが出来ます。
はるばるとパキスタンまで来てラホール博物館が休館のために、たったの半日しか「苦行像」に会えなかったこの日のことは、私の人生で痛恨の一事だったと今でも思っています。
 今回、この文章を書きながら実際にラホール博物館のサイトにアクセスしてみました。すると何と休日が金曜と第一月曜、その他の宗教上の休日となっている!!。あの日の後に休館日が水曜から金曜日に変わっていました。


 10月31日(火)
 翌日はイスラマバードからペシャワルへはバスで向かった。ペシャワールはガンダーラの地に西暦2世紀前後のクシャン王朝時代に大変栄えた都だった。仏像などのガンダーラ美術が大量に造られた地だ。

 ここにもイギリスが造ったペシャワール博物館がある。博物館の規模はラホールより小さいが発掘されたガンガーラ美術等の優品が数多く収蔵展示されている。

 館内は場所によっては照明が切れていて暗かったりする展示室もあったが、撮影しながら見て回った。




 ここでラホールの「釈迦苦行像」のようには広く知られていない、私も全く知らなかったもう一つ別の「苦行像」と出会った。


その像は破損も大きくラホールの苦行像とは全く違い、おどろおどろしい形で苦行の姿を表した像だった。もし私がこちらの像をはじめに見ていたとしたら、「苦行像」に対する印象はかなり違ったものになっていただろうと思った。



 「釈迦の一生を刻んだ有名なスツーパ」





U、旅で見て感じたパキスタン
1)カラコルム山脈
 約一万メートルの高度を飛ぶパキスタン航空機は数千メートルの高峰が連なるカラコルム山脈を、越えてパキスタンに入っていく。その時には地表との距離が数千メートルになるので地上が急に近づいてきた感じがした。
 行きには夜間にそのカラコルムの山並みを越えた。窓から外を見ると月が出ていた。下に見える峰々と氷河が月光に照らされ青白く煌々と輝いていた。その幻想的な美しい光景に文字通り息を飲む思いをしながら窓の外を見続けた。
 帰りは昼間だったがひときわ高くそびえる世界第二の高峰、K2峰を遠くに確認することが出来た。私はK2を見られただけで大いに満足した気分になった。

2)世界遺産タキシラ
 パキスタンの2日目に行ったタキシラは世界遺産だった。当時は世界遺産が今ほど話題に上っていなかったので、私は遺跡入口の案内板を見るまでそのことを知らなかった。整然とした街路と住居跡の「シルカップ遺跡」や大きな「ダルマージカ・スツーパ」などが点在する。そしてここにも遠征して寄ったかも知れないという、アレキサンダー大王のことなどを想った。
シルカップ01シルカップ02
      「世界遺産の案内」                         「整然とした街路」


 有名な「双頭の鷲」の彫刻が残るスツーパの基壇跡。











 広い遺跡には世界遺産だが他に見学者は殆どいなかった。それでも入口付近で小さな石の仏頭などを何個か持った土産売りが近づいてきた。その仏頭はまさか盗掘品ではないとは思ったが、土を付けて発掘品の様な細工がされていた。これはどうしたのだ?と聞くと近くで造っていると言う。私はそれを欲しいと思った。するとGさんがその土産売りのおじさんを向こうに連れて行き何か話している。かなり厳しい値引きを迫ったようだ。外国人旅行者ではないGさんを相手に土産売りの彼は渋々交渉に応じたようだった。いくらだったかは覚えていないが、こんなに安くて良いの?という値段だったと思う。
 もし本当に近所で造っているならその様子も見てみたいというと、そのおじさんは案内するとも、場所も言わなかった。
 パキスタンは発掘品の国外持ち出しを禁じている。買った釈迦の仏頭が偽物だとは思っていても、出国する時に引っ掛かったらと空港では少しヒヤヒヤした。

 それは今、我が家の本棚の中に置かれています。隣は水タバコ吸引具のミニチュア土産品。

  (本物はこの位の大さ)



3)パキスタンの大ストライキ
 首都のイスラマバードは良く整備された官庁街という雰囲気だった。当時は処刑された前々代ハーン・ブット大統領の娘で、パキスタンの初女性首相のブット政権で不安定だった(彼女は後に暗殺された)。
 翌日に国内の大きなストライキが計画されていた為、場所によっては軍隊が機関銃などを並べた警備線を引き騒然とした場所もあった。しかし朝でデモはまだ始まっていないせいか、Gさんや周囲の人達にもあまり緊張感が感じられない。平気で兵士が構える機関銃の前を歩いて横切っている。私は初め少し緊張していたが、余りに皆が普通に歩いているので直ぐそれに慣れてしまい機関銃の前を歩いていた。流石に報道写真家ではないので、この場所では写真が撮れなかった。
 そして警備線の裏側に回ると緊張感が更に無かった。交代で後ろにさがった兵士の為に屋台の弁当屋などの露店が沢山出ていた。木陰で兵士達がそれを買い食べたり寝転がって休んだりしている。そんな出店の中に敷物の上に本を沢山並べた古本屋までがいて思わず吹き出しそうになった。
 それでも公園のテラスで昼食中にそれとなく私逹の方を見張っている感じの二人連れがいて、見え隠れに付いてきていた。思い過ごしだったかも知れないが、デモでもあり外国人に対する監視をそれとなくしていたのかも知れない。その夜のTVでは各地の大規模なデモのニュースが流れていた。

4)ラホールで出会ったイギリス
  博物館の休館で思わぬ時間が出来てしまったので、有名なモスクや城塞などを市内を見て歩くことができた。イギリスの植民地時代(当時はインドとして)にラホールも整備された。博物館もそうだが市庁舎、郵便局、裁判所、駅舎と市内で目に付く立派な建物は皆イギリスが造った建物だった。この印象は同じイギリス植民地だったマレーシアでも同じだった。
 Gさん達を昼過ぎまで待つ間一人することがないので、時間潰しに博物館の隣に建つ同じく立派な造りの図書館に入ってみた。ガンダーラ関係の資料が見られるかもしれないと入ったのだが特に見つけられなかった。

 図書館のトイレは階段を下りた地下にあった。そこで大英帝国の威光を目の当たりにしたような感じがして“これは敵わないなナァー!!”と思った。
 それは黒い大理石?で幅は80センチ以上、高さは私の背丈より高い。その黒光りして大きく彫りこまれた立派な小便器が3〜4個が並んでいたのだ。私はそんな立派な便器をそれまで見たことが無かったので圧倒される感じがしたのだ。








5)パキスタンで感じたイスラム
 ムスリム(イスラム教徒)の国なので女性とはホテルなどでも直接話することは殆どなかった。
 
 でもトクトク(軽三輪タクシー)やタンガ(馬車)に乗っていると私が珍しいのだろう、皆がこちらを見つめてくる。私がそちらを見ると女性達は必ず目を外して子供逹だけが珍しそうにこちらをズット見ている。それに対して男達は彫りの深い少し怖い顔がこちらをジーッと見詰めてくる。そんな併走しているおじさんにこちらから笑いながら軽く手を上げるげると、無表情で怖かったその顔がニカーッと実に良い笑顔に変わり返ってくる。人は見掛けではないのです!!。




 ラホールの屋台で見た印象に残るイスラム教の話だ。路上に並べたテーブルで主食のナンとカレーなどの夕食をしていた。ナンは何枚でもお代わりが出てきて、しかも冷めたナンは焼き立てと次々に替えてくれる。焼き立てのナンを持ってきて冷めたナンを下げようとする店員に、Gさんが持って行かなくてよいと手で制した。すると袋を背負ってゴミを探しながら近くを歩いていた乞食のおじいさんに指で合図をして、テーブルの端にその皿を押しやった。そのおじいさんがごく自然に我々の横に座りその皿の冷めたナンを食べ始めたではないか。Gさんも全く気にする様子もなく我々と会話を続けている。私が更にビックリしたのは、Gさんがその同じ皿からナンをちぎって一緒に食べた時で、笑ってしまった。おじさんは食べ終わると特に礼の言葉をするでもなく、何も無かったように立ち去っていった。
 Gさんにどうしてあのおじさんにナンをあげたのかを聞くと、「有る者が、無い人にあげるのは当然だ」と言う。今見た彼とおじいさんの自然さからこれは何時もの事で、これがイスラムの教えなのだろうと思った。
 近年のタリバンやISなどのイスラム過激派の行動に対して、「あれはイスラムでは無い」と言うムスリム人達の言葉を聞くことがある。激しい宗派の違いを聞くが、確かに普通のイスラムは我々が考えているより穏やかで優しい教えなのかも知れないと思います。

6)食中毒


ペシャワルの屋台で本場の串に刺したシシカバブーを食べたが、それまで日本で抱いていたイメージとは違っていた。(日本では昔、シシカバブーの歌が流行っていた。)

























 バスでペシャワル博物館に行った帰りに、道脇の食堂にバスが止まり食事をした。水がなかったので他の客が飲んでいた蛇口の水を片手に受けて、一口含む程度飲んだ。それは不衛生な海外では決してやってはいけない生水を飲んだことになる。後で考えると蛇口の水は水槽に貯められた水だった。案の定その晩から腹痛と下痢が始まった。


 「食堂(ドライブイン)」



 その2日後の晩に無事帰国した。到着した成田空港の検疫所で一応その話をした。でも発熱はしていないので地元の保健所で調べてもらうようにと言われてそのまま帰宅した。
 翌日、狭山保健所で検査を受けた。暫くして「エロモナス・ソブリア」という病原菌が検出されたが感染はしない。との通知が届いた。腹痛と下痢は2〜3週間ぐらい続いたが、ヤットそれが収まり私の「釈迦苦行像」再会の旅が終わりました。

ーおわりー

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