山の研究です もくじへ>
「アオラキ/マウント・クック」
ハイピークからミドルピーク、ローピークとタズマン氷河下流方向を望む。
(ニュージーランド1974)
人はどうして山に登るのだろう。「そこに山が在るから」ではないと思う。
それは人類が生き残ってきて今に至った一つの要素で、
人間の本能の一部がそうさせているのではないかと思っている。
現代の我々に比べて遙かに強かったであろう太古の人類の本能。
その本能の片鱗やカケラが人を山に登らせているのではないかと思う。
食料が足りているのに、強い部族や気候の脅威が無いのに。
人は危険を甘受しに山に海に、極寒・酷暑の未開の地などに向かう。
と私は考える。
現代人はこれをアドベンチャーとかリクリエーションなどと言う。
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アオラキ/Mtクック40年前の遠征記
まえがき | 1,プラトーハット小屋へ | 2,一次アタック・失敗 | 3,二次アタック・登頂成功 |
4,プラトーハットを去る |
5,準備から出発まで | 6,出発 NZへ | 7,クライストチャーチで |
8,クック村で | 9,アーウインハットで | 10,NZを巡る | 11,ハワイから帰国 |
あとがき | E |
アオラキ/Mtクック遠征記 2016/11/01アップ
Var 31.42 2017/06/08 (5,準備から出発の◇費用に(追記1)をしました)
Var 32.06 2017/10/11 (9、アーウィンハット、にピーター達(追記2)をしました)
Var 32.07 2018/01/05 (9、アーウィンハット、にステファンソン先生を追記)
Var 33.01 2018/01/19 (5、準備から出発までに日本の氷河確認を(追記3)をしました)
Var 34.01 2018/10/01 (5,準備から出発の◇資料探しに(追記4)をしました)
まえがき
今年、2016年1月の8日間、私が41年前に行ったことのあるニュージーランドに旅をした。今回は妻と二人で再び訪れたニュージーランドの旅だった。
1974年に同級生のI君と二人でニュージーランドの最高峰アオラキ/マウント・クック3764m(当時)に遠征した。 当時は海外旅行が簡単ではない時代で、再びニュージーランに来ることはないだろうと思っていた。しかし今では海外旅行も容易になり機会があれば再び訪れたいと思うようになっていた。
今年になりマウント・クック国立公園のVC(ビジターセンター)に問い合わせをすると、当時の登頂記録簿のコピーを入手することが可能だとわかった。また夏のシーズン中には予約が難しいだろうと思っていたハーミテージ・ホテルの予約が2泊とれた。当時の我々にとっては高級過ぎて夢のまた夢的な存在のホテルだった。私の腰痛を押してバタバタという感じでニュージーランドへと旅立った。
41年振り二回目のNZ、初日のランチはクインズタウンの公園で鳥達と一緒にサンドイッチを。
ハカ・ショーでは舞台に上げられて腰痛をおしてハカダンスをする。(NZのオールブラックスが試合前にやる、アレだ!)
(2016/01)
新装されたハーミテージホテルに滞在中の3日間は天候が悪く残念ながら一度もMtクックを見ることが出来なかったが、高級ホテルの雰囲気を味わってきた。登頂記録簿もVCの日本人女性スタッフが手伝ってくれ、倉庫から自分で探し出して原本のコピーを入手することができた。
「当時は右の高い建物が無かった」 「登頂記録簿・左上に我々のサイン」
今回の旅から帰国してからこの機会に当時の記録を整理しようと思い立った。でも当時のメモ類が散逸してしまっている。何しろ40年も前のことなので忘れている事も多い。正確な経過や状況を思い出せないこともあるが手許に残る写真と資料を頼りに以下に表してみた。
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ここでクックの名称について整理しておく。通常は「クック」というと、イギリスの探検家キャプテン・クックにちなんで名付けられた山の名前マウント・クックを言うことが多い。しかしハーミテージホテルのある麓の「クック村」も単に「クック」とか「ハーミテージ」と呼ばれたりもする。
ニュージーランドは先住民族との融和が最も進んだ国といわれている。そのことから現在はマオリ名のアオラキ(雲の峰)を併記した「アオラキ/マウント・クック」が正式名となっている。
以下この文章ではクック山を単に「クック」と呼ぶこととする。
尚、以下の記録は古い記録です。しかも思い出しながらなので私の記憶違いも有るかも知れません。ですから現在のクック登山の為の資料には余りならないかも知れません。 〇近年のクック登頂記、「青空山岳会」さんの記録「サザン・アルプス」の以下サイトをリンクさせて頂きました。 http://aozorasangakukai.namaste.jp/no17.html NZの登山事情が詳しく記録されており、素晴らしい写真も沢山掲載されています。そちらもご覧下さい。 先日「青空山岳会」さんはチョ・オユー ( 8 2 0 1 m )の登頂に成功されました。 ”おめでとうございます!!” サイトの「山行記」を見ると国内外の山々に激登(笑い)という感じで登られているので驚きます。 ********************************** 〇北海道清里町のペンション「ロッジ風景画」のオーナー山下さんの「ニュージーランド紀行」ブログをリンクさせて頂きました。 http://fuukeiga.net/blog/?m=201211 登山ではない釣行記ですがNZの移動や宿泊事情を知ることが出来ます。 |
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1、プラトーハット小屋へ
1974年12月21日:ニュージーランド山岳会のロッジ、アーウインハットで待機していた我々の元にセスナ機が飛べると連絡が来た。
ニュージーランド人のラッセル、ピーター組とロール、クリス組と一緒にマウント・クック飛行場に向かった。飛行場で出発を待っている所へラッキーとデーブ組の2人がやってきた。のちに我々が怪物2人組と呼ぶことになるオーストリア人だ。歩いて小屋まで登る彼等は袋に詰めた自分達の荷物を運んでくれとラッセル達に頼んでいる。ラッセル達はOKと気楽に荷物を受け取り、自分達の荷物と一緒に持って飛行機に乗り込んだ。セスナは4人乗りなので我々は第2便だった。
「Mtクック飛行場」
向かう先はクック東側の標高2200mに位置するセスナが離着陸できる雪原のグランドプラトーだ。ベースとなるプラトーハット小屋もここにある。
機上からは文字通りの大展望で我々は夢中になって写真を撮り続けた。
そしてグランドプラトーから流れ出るホックステッター氷河のアイスフォール帯の真上を飛びグランドプラトー雪原の着陸地点に侵入していった。ところがセスナは急にタッチアンドゴーでエンジンを噴かし急上昇をして着陸をやり直した。ほとんど垂直ではないかと感じる程に機体を傾けて左に急旋回をしながらクックの東斜面をかすめるように飛んだ。流石に宙返りこそはしなかったがまるで空中戦並ではないかと思わせるスリル満点の飛行だった。私はこの滅多にない経験に大いに興奮しながら写真を撮り続けた。
再度セスナはグランドプラトーに侵入し今度は無事雪面に着陸した。
「機上からのタスマン氷河源頭部」 「機上からのクック東面」
乗ってきたセスナは我々がプラトーハットに向かって歩いている間に飛び立って行った。ところが小屋に着くと皆が笑いながらお前達の乗ってきたセスナがスキーをぶつけて1本落としていったと聞かされた。そのスキーは後から別の飛行機が拾いにやって来た。この時のグランドプラトーの状態はそのくらいに悪かったのだろう。
オレンジ色に塗られたプラトーハットは少し高台の岩場の上に建つ無人の小屋だ。中に入り荷物を整理をしていると、ラッセル達が小屋に備え付けのスト−ブを磨き始めている。それが終わると外に置いてある天水貯めのドラム缶を掃除し、更に小屋の外に建つ便所の掃除は消毒液を使い次々と仕事をこなしていく。
彼等は小屋に着いたら先ず小屋を掃除することが習慣になっているようだ。掃除が終わると彼等は裸になり近くの岩の上で日光浴などを始めた。
「プラトーハット」 「小屋のキッチン」
我々は只その様子を感心しながら見ているだけだった。こんな所なのに小屋の近くには何羽ものカモメがヒョコヒョコと雪の上を歩いていた。
小屋は2段ベットの4人部屋が3部屋あり、無理に詰め込めば多分30人以上は楽に入れそうな大きさだ。実際にはVCで小屋に入る人数を管理して
「天水貯め」 「屋外の便所とMtタスマン」
いるので定員オーバーということにはならないはずだ。シュラフと毛布も備えてあり、窓際のキッチン台の引出にはナイフとフォークなどの食器具類が備え付けてあったので苦笑した。それは日本からのJALの機内食用ナイフとフォークを、渋るスチュワーデスさんから無理に貰ってきたからだ。当時の機内食用の食器具は今の様にプラスチックではなく、小振りのステンレス製で山で使うのには丁度良かったからだった。
小屋には自分達をキーウイーと呼ぶニュージーランド組の2パーティー、既に入っていた同時期に遠征をしていた日本医大隊の2人と我々の日本組2パティー、他にイギリス人の単独者だった。
夜になりラッキー、デーブのオーストラリア組が小屋に入ってきた。彼等は凄いスピードで下から我々を追って登ってきたことになる。
夕方にはVCと無線での定時交信がある。その情報で氷線高度が大事だ。クック付近が「フリージング・レベル7500フィート」と告げられるとブゥーと外人組が不満の声を上げる。氷線が高いということは気温が高くて雪が締まっていない為、悪コンディションであることを示しているからだ。通常は7000フィート以下に氷点が下がらなければ登りに行かないと彼等が言う。
「キーウイールーム」
そのコンディションの悪いなか夜中に、日医大隊とイギリス人単独行者が小屋を出発していった。
そして翌12月22日の午後、昨晩出発した日医大隊のメンバーが2回目のアタックで登頂を果たし下山してきた。彼等からリンダ氷河のルートは登ることが可能だという情報が得られた。
入山前にVCで今期のリンダ・ルートは状態が悪く登れないと言われていたので、我々はクック東面のザブリンゲンリッジ・ルートを登るつもりでいたのだ。
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2、一次アタック・失敗
12月22日:VCとの定時交信でフリージング・レベルが7000フィート以下に下がり、我々は夜中の23時にプラトーハットを次々に出発した。ラッセルとピーター組がMtタスマンに、ラッキーとデーブ組がクックのイーストリッジルートへ、ロールとクリス組と我々がリンダ氷河ルートへと向かった。 小屋の壁には「アイゼンを小屋の中で付けるな」と注意書きがしてある。しかし小屋の外でアイゼンを付けるのは誰でも寒い。出発していく皆が小屋の中でアイゼンを付けて出ていく。出口付近はアイゼンの爪の痕で床板が穴だらけだ。ニュージーランドのクライマー達もこれだけは規則を破る。我々も皆に習って(笑い)小屋の中でアイゼンを履いて外に出た。
プラトーハットとクック頂上までは約1500m余りの標高差がある。
グランドプラトーを横切りリンダ氷河に入り23日になった。クレバス帯に差し掛かり、ヘッドランプの光で大きなクレバスは避けて行けるが、小さいヒドンクレバス(隠れクレバス)は昼でも怖い神経を使う場所だ。アンザイレン(互いををザイルで繋いで登ること)をして注意しながら氷河上を登る。
進んでいく右側の暗闇の中から絶えずガラガラと落石の音が響いてくる、Mtバンクーバーの方向からでドスンという小さな小屋が落ちたかと思うぐらいの大きな音と、岩がぶつかる時の火花やキナ臭いにおいも漂ってくる。落石がこちらまで来ることはないとわかっていても暗い中では気分が良いものではない。 黙々と登り続けクレバス帯を抜けて雪面の斜度が増してきた頃に周りが明るくなり始めた。先行するロール・パーティーの姿が見えてきてそれを追って進んだ。
雪面は硬くはないが更に斜度を増してきて、先行するロールパーティーに追い付いた。
「アオラキ/Mtクック ルート図」
@リンダ氷河・ルート Aボーイリッジ・ルート Bザブリンゲンリッジ・ルート
Cノースリッジ・ルート DMtダンピアノーマル・ルート EMtバンクーバーノーマル・ルート
グリンサドル:CとD間の鞍部
しかし時間的には雪面から岩場に出ていなければいけない筈だ。それでも雪面は斜度を増して壁となって続く。この頃からルートを間違えているな!と感じ始めていたがそのまま登り続けた。ついに急斜面を登り詰めて狭いコル(鞍部)に飛び出てしまった。コルの向こうの西側にはフッカー氷河対岸の山並が遠くまで見えた。そこはリンダ氷河の最上部に当たる、クックとMtダンピアとの鞍部のグリン・サドル(3368m)だった。幅は2m位で長さもせいぜい5〜6m程のコルで、ロール達とルートを間違えた!と互いに顔を見合わせて苦笑した。
彼等は“明日に再度アタックをするから”と暫く休んでから早々に登ってきた雪壁を下降していった。
我々はもう少し粘ることにした。持ってきた地図と簡単なルート図を見ると、グリン・サドルから頂上に伸びるルートがノースリッジ・ルートとして記されていたからだ。取り付きの岩場をよく見るとは結構難しそうだったが、岩場を抜けらればクック頂上のアイスキャップ北側の稜線に出られることになる。この岩場をトライしてみることにした。
「登ってきたクリス」 「グリンサドルからのMtタスマン」
リンダ氷河側に少し回り込んで取り付いたが何処もハングした一枚岩の感じで、岩用ハーケンなどの装備も足りず歯が立たなかった。結局1ピッチ40メートルも登れなかった。2時間位は粘っただろうか?あきらめて下りることにした。
下山後に知ったのだがノースリッジは1894年のJクラーク等3人で為された初登頂時のルートだった。彼等はフッカー氷河側からグリンサドルに到り初登頂をしている。このルートの第二登は実に60年後の1955年のクック100登目で、その後も1〜2回しか登られていなかったという難ルートだったのだ。
登ってきた急な雪壁を下降して、正規ルートの回り込まなければならなかった雪棚下の地点まで来た。そしてその場所に目印として持っていた小さな日の丸の旗を雪面に刺しておいた。
リンダ氷河の下降は昨夜よりも雪が腐っているので一歩一歩と踏み出す靴が沈んで登りの時より更に歩きにくかった。途中の大きく口を開けたクレバスの下をのぞき込むと楽に百メートルはあるのではないかと感じる深さがある。もしここに落ちたら終わりだなと思った。
何度も座り込み休み休みしてやっと午後遅くになってプラトーハットに帰り着いた。
小屋に戻るとラッキー達がお前達はノース・リッジを登ったのか?と聞いてきた。「1ピッチだけトライしただけだ」と話すと納得した顔をした。
その日の夜中にも、ラッセル達がリンダ氷河・ルートと反対側のイーストリッジ・ルートを登るために出発していった。クックは南からロー・ピーク(3593m)、ミドル・ピーク(3721m)、ハイ・ピーク(3764m当時)と3つの連峰になっている。彼等はイースト・リッジをミドル・ピークまで登りナイフエッジの稜線を主峰のハイ・ピークまでの約1000mを縦走して、リンダ氷河を下って戻るという。彼等がグランドプラトーの雪原を横断していくヘッドランプの光を見送った。
再アッタクに出発するロール達に氷棚下部の左折地点に目印の旗を刺してきたことを話すと「グッドアイデア」と笑い、連夜で再び出発していった。
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3、二次アタック・登頂成功
12月24日:ロール組が無事登頂を果たして夕方を過ぎて小屋に戻ってきた。
我々は前回と同じ23時に小屋を出発した。
リンダ氷河に入り25日になった。今回はロール達のトレースにも助けられて暗いリンダ氷河を登り、目印の旗をヘッド・ランプの光の中に見付けた。
そこから左に回り込み氷棚に取り付きクック北東陵に向かい雪壁を登り始めた。過去の日本隊もこの氷棚に苦労したことが書かれている。でも雪面は固くはなく傾斜もグリンサドルまでの雪壁と比べあまり急に感じなかった。最後のシュルント(雪面と岩場の境の割れ目)を越えるのに苦労したことだけを覚えている。その登った距離は全く記憶に残っていなかったのだが、改めてルート図と写真を見てみると随分長くて数ピッチ約300m位はあったことに驚いている。
そしてやっとクック北東稜の反対側、東面からのザブリンゲンリッジ・ルートとの合流地点に出た。
丁度その頃に東の雲海上に朝日が昇ってきて、ニュージーランド第二の高峰Mtタスマンの鋭く尖がった白い頂が朝焼で赤く染まっていた。私はその日の出を眺めても日本アルプスの御来光と同じだなと感じただけでその景色をユックリと見る余裕は無かった。ここまで既に約7時間も掛かっていて、核心部約500mの岩と氷の登攀が残っていてからだ。
その時にラッセルとピーターが頂上から下ってきた。彼等はミドルピークから頂稜部を縦走し、昨晩は頂上でビバークしたという。我々は互いに“気を付けて”と声を掛け合って分かれた。
「合流地点から見る日の出」
再び登り始めてすぐに岩場の下部を左側に回り込みクック東壁の上部をトラバースする場所がある。このトラバース箇所がルート中で最もスリルのある場所だった。幅が狭く左側はクック東壁が1000mもスッパリとグランドプラトーまで切れ落ちていた。
岩場はそれほど難しくは
「トラバース部、左は東壁からタスマン氷河」 「岩場」
なく斜度もそれ程急ではなかった。大きな岩とグズグズの岩とが交互する感じの数ピッチを登り切り、頂上アイスキャップの基部にたどり着いた。
さすがにこの高度まで来るとアイスキャップの雪は締まりアイゼンの歯がわずかに効く程度で、斜度はあるが広い雪面が青い空に向かって続いていた。雪面をスタカート(交互確保)でトップを交代しながら登るので下で確保しているとトップの足元からの小さな氷片がパラパラと常に落ちてくる。雪面に座り込み確保しているとウトッとする瞬間があった。夜中に出発してから8時間以上行動しているので睡魔が襲ってきたのだ。もしあの瞬間にトップが滑落したら止められなかったかも知れないと、後から思い出すと冷汗が出る思いがした。
急な氷の斜面を数ピッチ登り、傾斜が次第に緩くなりついに我々はクックの頂上に立った。1974年のクリスマスだった。晴れて風もほとんどなく絶好の登頂日和りとなった。
二人で硬く握手をして、360度の大展望を眺める。
南にミドル・ピークとロー・ピークへの稜線、その先にタスマン氷河下流のタスマン河が霞んで見える。東の下方にはグランドプラトーと長く延びるタスマン氷河の上流部、Mtマルテブランなどの対岸の山々。西にはフッカー氷河対岸の山々とその遠くにはタスマン海が見えていた筈だ。北の稜線の先にはMtタスマンが目の下に見えていた。
「クック頂上に立つ」
まだ注意を要する下りが残っているのだが “これで終わったぁー” と思った。
行動食の定番にしている中村屋のカリントをかじっているとこの1年間の準備が思い出されてきて自然と涙が出てきた。スライドとネガで100枚位の写真を撮りまくり1時間くらいは頂上でユックリした。
附近にはラッセル達が氷を掘った昨晩のビバーク跡が残っていた。
「手書きの日・NZ旗とミドル・ピークとロー・ピーク(右)を望む」
頂上からの下降はアイスキャップを慎重に下り、岩場は少し強引な感じで下った。ザブリンゲンリッジの合流地点までおりてきてホッとし、シュルントを越え氷棚を下り無事リンダ氷河に降り立った時に、クックの登頂を本当に果たしたのだという気持ちになった。
でもその後が長かった。リンダ氷河は前回と同様に雪が腐っていて一歩毎に足を取られる。何度も休みながらの下降でピッチが上がらない。リンダ氷河を抜けてグランドプラトーまで降りてきて、見えてきた小屋だがヘロヘロになった我々には中々近づいて来なかった。
エドモンド・ヒラリーは1953年のエベレスト初登頂以前、戦争から帰った1946年に初めてクックに登っている。“リンダ氷河はすでに軟らかくぬかるんでいたので、グランド・プラトーを横切って小屋まで下るのは長くてうんざりする苦しい道のりだった(吉沢一郎訳)”と「ヒラリー自伝」に書いている。あのヒラリー卿でさえ苦しかったのだ!。
「リンダを下る」
すると何とラッセルとピーターの二人が小屋からこちら向かって歩いて来るではないか。折角乾かした靴を濡らしてわざわざ我々を迎えに来てくれたのだ。何度も”ノーサンキュウ”と言ったのだが荷物を持ってくれた。私はゴーグルの中で涙が流れた。本当にグッド フェローズだ!!そして小屋に着き外で座り込んだ我々にお茶まで出してくれた。
小屋に着き皆に握手をされると自分でも満面の笑みになっていることがわかった。
「プラトーハットに戻って」
帰り着いたのはまだ明るい時間の21時だった。通常リンダ氷河ルートのコースタイムは15時間から20時間くらいだが、我々は前日の23時に出発したので頂上でユックリしたこともあり22時間も掛かってしまった登頂となった。
下山後に何時間掛かったか?と聞かれると、約20時間と少し見栄を張って答えたものだ。
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4、プラトーハットを去る
12月26日:互いに目的の登頂を果たしたので、ラッセル達からアンザックピークに一緒に登らないかと誘われた。アンザックピークはクック・イーストリッジ取り付き近くのグランドプラトー南端にあり、小屋からは約3キロの距離で標高差は約300メートルの小岩峰だ。
出発してすぐに我々と彼等の足の長さの違いを思い知らされた。グランドプラトーに下りると雪が腐っているので一足毎にズボズボと足を取られる。前を行く彼等のトレースに合わせて我々も歩きたいのだが歩幅が合わない。そのうえ彼等の歩き方は一直線でその足跡についていけない。すぐにニュージーランド式の長ストライド直線トレースの横に、日本式短ピッチ平行トレースが並んでグランドプラトーを進んでいった。
アンザックピークの取り付きに着き、登り始めたルートは岩のガリーで落石がひどかった。互いの距離を取りながら数ピッチで頂上に立った。
「アンザック頂上で、後がクック東壁」 頂上はクックの見晴台的な平らなピークで真正面にクック東壁がダイナミックに迫っていた。ラッセル達のお陰で我々はクック登頂後にノンビリとした気分の岩登りを楽しむことができた。
27日:荷物をまとめ、ラッセル達と一緒に小屋の掃除をしてプラトーハットを後にした。
下山ルートは小屋の北側に見えるグレッシャードームに約120m一端登り、そこから広い雪原を左に大きくトラバースしてハースト氷河を下る。
その降り口からの下りは60度以上の急斜面が数十m位はある雪壁だった。プラトーハットの下方にあるハーストハット小屋から来たらしい数パーティーもいて数珠つなぎ状態になった。順番を待ちをして真っ直ぐに雪壁を下り始めたが、この状態で上から落ちてこられたら避けられないなとヒヤヒヤしながら下った。背負子に背負った荷物が重い上にステップの雪もゆるんでいるのでクックに登った時よりも緊張する下降だった。ここはフィックスザイルがセットされても良い場所だったろう。
雪壁の下に降りてからも下り続け、最後にフィックスの張られた岩場を下りタスマン氷河に降り立った。
「タスマン氷河に降り立つ」
「セスナで上を飛んだホックステッター氷河の
アイスフォール帯」
「モレーンの氷と岩の上を歩く」
そこからも歩き難くいモレーンの氷と岩クズの上を歩き続け、ついに観光客が沢山集まるボールハット前の広場にたどり着いた。
長かったー!!。
下山後にロールから我々の登頂は多分470番目ぐらいだろうと聞かされた。今回VCでコピーしてきた公式の登頂者リストでは第463登目となっている。
しかし記録簿に書かない者がいる事を直接見てもいるので、実際には500登位はされていたかも知れない。
日本人の初登頂は1964年12月にY,Ito氏等による第175登目とされている。
次章の「準備から出発まで」に出てくる「丸さん」達は翌年に日本隊の第2第3登目だった。
その後には次々と女性を含めた日本隊が登頂しているので我々は20〜30隊目前後ではなかったかと想われる。
◇ここで手許の資料から1967−68シーズンまでのクック登頂数を概観してみる。
〇1894年のクック初登頂以来第二次大戦終結の1945ー46シーズンまでの49年間に第71登目が記録されている。つまり殆どのシーズンで1−3隊しか登っておらず、登頂数0の年も多い。
この間の1923年8月の第24登目に冬期初登頂がされている。夏でさえ激しく吹雪く事があるクックの冬期登攀は特に困難でその後冬期の第二登は’67ー’68シーズンまでには記録されていない。
〇第二次大戦終了後には登山者が増えた。特に1965年頃からスキープレーンによるグランドプラトーへの着陸が可能となり、プラトーハットへのアプローチが格段に楽となり、毎期の登頂数が10隊以上と急増した。
終戦から1967−68までの21シーズンでで第231登目が記録されて160隊が登頂している。
〇更にその後我々が登った1974−75までの7シーズン中には第478登目までの247隊が登頂し、毎シーズン35隊以上相当と激増している。ちなみに我々の登ったシーズンには25隊が記録されているが、上述のように記録をしない者もあるので30隊以上が登頂していた筈だろう。
〇尚、近年登頂してもサインをしない隊が多くて登頂記録を残すことは廃止されたそうだ。レンジャーの話では(記憶が不確かだが)今までに約4000登位?になるのではとのことだった。その数が正しいとするとこの約40年間で3500隊以上が登頂したことになり、毎期平均で90隊前後ということになる。
それでも毎年のように日本隊も含め遭難が発生しており、クックが今も厳しい山であることは変りがない。
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5、準備から出発まで
◇どうしてクックに:
1974年の始め私はそれまでの登山活動の区切りとして海外の山に登ろうと考えた。当時はヒマラヤやヨーロッパのバリエーション・ルートを日本の先鋭的クライマー達が盛んに遠征し征服をしている時代だった。
だが私にはたとえヒマラヤの5000m峰程度だとしてもその為の長期間の時間もなく、ヨーロッパの北壁6級ルートを登る力も無い。しかしどおせ海外の山に出掛けるのであれば日本の山には無いより困難な要素がある山でなければ意味がない。
その日本の山には無い物を氷河と考えた。日本には過去の氷河の痕跡とされる地形と、一年中雪の残る雪渓は在るが氷河は存在しない。
(追記3)
(近年、我々が雪渓と呼んでいた谷が氷河と確認されたそうだ。2012年に立山の「三の窓」「小窓」「御前沢」の3カ所と2018年に鹿島槍の「カクネ里」の計4カ所だ。つまり現在は日本にも氷河が存在する)
(この追記をした翌日2018/01/19の新聞に、「国内氷河6カ所に」という記事が出た。「池ノ谷」「内蔵助」の2カ所の雪渓が氷河と確認されたそうだ)
そう考えているうちにニュージーランドには南半球最大のタスマン氷河があることを知った。その地域にはニュージーランド最高峰のマウントクックがある。標高こそ富士山より12m程低い3764mなのだが歯応えのある山だということがわかった。私は海外で登る山をクックにすると決めた。
(クックは1991年と2014年の二度、頂上アイスキャップの大崩落があり現在の公式標高は3724mで当時と比べ40m低くなっている)
そして互いの会の山行にも参加し合っていたI君を誘い一緒に行くことになった。
◇資料さがし:
今はネットを開くとニュージーランド旅行やクック登山に関する情報を驚く程沢山見ることが出来る。だが当時はニュージーランドに関する情報がほとんど無かった。例えばクックの地図が日本では入手出来なくて国会図書館で探した。図書館には世界中の主な国の地図が収蔵されていてニュージーランドの地図もあった。クック地域の地図番号を確認して、ニュージーランド国土調査局?に直接手紙で問い合わせて1/63,360(1inch
to 1mile)の地図を入手した。
最初に出会ったクックに関する資料は「山渓」か「岳人」に掲載されていた久留米医科大学の脇坂順一教授が書いた「マウントクック登頂記」の記事だった。この記事が私をクックに向かわせる切っ掛けとなったのだ。
もう一つの資料は長野県山岳連盟が1965ー66年のシーズンに行った遠征を書いた、「ニュージーランドの山旅」丸山晴弘著、あかね書房刊だった。我々の9年前に日本隊として第2登、3登目のクック登頂をし、登山活動後にレンタカーでニュージーランドを旅をした記録だった。丸山氏と直接会ったことはないが、我々は「丸さんの本」と呼んで親しく参考にさせてもらった。
情報を得るために当時日本に就航したばかりのニュージーランド航空(ANZ)や、ニュージーランド大使館にも出掛けたが山に関する直接の情報はほとんど得られなかった。
勤める会社にS大学ヒマラヤ遠征隊長をされたS部長がいた。その紹介で副隊長のY氏から海外遠征時の細々とした注意やアドバイスも聞かせてもらった。他に一年前にニュージーランドを1人で周り、クック周辺の山々を登ってきた人と会い、あちらの実情なども聞けかせてもらった。
出発が近づいた十月頃になり日本医科大学・山岳部(日医大隊)が我々と同時期にニュージーランド遠征を計画していることを知り情報交換することができた。彼等は医学部の山岳部なので普段の山行でも医療機器は装備として持って行き、盲腸の手術くらいならばその場で出来るという話しを聞いて驚いた。持参する薬品などの相談に乗ってもらったりもした。
(追記4)
部屋の整理をしていたら「ニュージーランド 旅行代理店マニュアル(1974)」というニュージーランド政府観光局が発行したA4で104ページの資料が出てきた。
ANZか東急観光(後述)から入手したのだろうと想うが全く記憶に無かった。旅行代理店向けの資料なので幅広く国内事情と観光ルート等の情報は豊富だが、登山に関する内容は殆ど無い。だから”何の役にもたたない”とパラパラと見た程度だったのだろう。
写真も豊富で立派なこのマニュアルを改めて見てみた。
〇登山に関してはニュージーランド山岳会(NZAC)に連絡するよう住所が書かれているだけだ。
実際はNZACのロッジにお世話になったのだが、当初はそれを考えていなかったので特にコンタクトはしなかった。
〇通貨レートは1NZ$=1.48US$なので1NZ$が391円(1973/9現在)とある。
米ドルを持って行き空港でNZドルに変えたと思うが、レートの違いを特には意識していなかったと思う。
〇セスナ・タスマン氷河観光で約40分の飛行代が11.8NZ$(約4600円)とある。
グランドプラトーへのセスナー代が幾らだったか記憶が無く気になっていた。実際の飛行時間は15分位だったので約7ドル位だったとすると2千数百円程度だったのかも知れない。セスナ代が高くて困ったと言うような記憶も無いので、こんなものだったのだろう。
〇列車の時刻表にダニーデン<ー>クライストチャーチ間は約6時間10分で運賃は約6NZ$位とある。
「あとがき」に記す我々が乗った列車は、時刻表に載る1日1本の12時21分発「サウザナー号」に乗ったことになる。
◇準備作業:
装備などは未知からくる過大な心配で余分な事物もあり、わずか二人の軽遠征でも結構手間の掛かる準備作業だった。
計画が煮詰まり英訳をした登山計画書の英文のチェックとタイプを神田の英訳会社に持ち込んで依頼した。まだパソコンやワープロが無い時代なのでそれが必要だった。
登山の準備のほかにパスポート取得や渡航の準備もあった。我々の9年前に遠征をした「丸さん」達の時代には大変だった。神戸を出航し香港経由でオーストラリアのシドニーに入港し、そこから飛行機でクライストチャーチに到着している。実にニュージーランドに着くまで十数日の長旅を要していた。
我々には勿論そんな時間は無い。高額になることは判かっていたが飛行機を使うしかなかった。当然航空会社は初めから相談に乗ってもらっていたANZを利用する積もりでいた。だが航空券は旅行会社で買う方が安いらしいという話しが聞こえてきた。到着したクライストチャーチでの宿の手配もあり、結局東急観光に航空券の手配を依頼することにした。
担当者からツアーを組んだ方が安いと言われツアーの意味もあまり知らずに承知した。すると我々の登山計画を見せてもらいたいと言われ相手に渡した。
後日「ニュージーランド登山旅行」と題するA4用紙たった一枚に印刷されたツアー案内書が送られてきた。今時の海外ツアーで山のように送られてくるの案内書や資料類の多さと比べると隔世の感だが。
「案内書・表面」
「案内書・裏面」
その内容を見て笑ってしまった。我々の登山計画書の全く丸写しだったのだ。東急観光が我々の計画の内容と日程で募集したツアーに、我々が応募して参加するという形になっている。勿論添乗員などいない(笑い)、航空券の手配とクライストチャーチのモーテル3泊とハワイのホテルの予約してもらうだけのツアーなのだが我々はそんな物だと思っていた。
帰路の経由をタヒチかハワイが選べるということでハワイ経由を選んだ。そしてオマケのハワイ島でマウナケア山(4205m)に登ることにして34日間の日程となった。
協賛が日本航空となっていて、当時の東急観光が日航や運輸省に海外ツアーとして申請すると何らかの優遇とか実績が得られるという事だったのだろう。当時既にニュージーランドのツアーは始まっていたようだが、我々のツアーは最初期のNZツアーだったのかも知れない。
そんな経緯から航空会社をそれまで相談にのってもらっていたANZから、出発直前になってJALに変更するという不義理な事になってしまった。ANZは日本への就航直後だったので我々の二人分でも搭乗者実績数を欲しかっただろうに。
◇費用
改めて案内書を眺めてみると参加費用が55万円とある。そんなに高かったかのかと思う。というのは前金を払い込んでくれとのことで、1人分35万円で二人分70万円の現金を持って東急観光に出向いた。その時の35万円が強く印象に残っているからだ。生まれてから70万などという分厚い現金を直接手に持ったことなど無かった。大袈裟に言えば東急観光に着くまでは手が震える様な緊張感だったのだ(笑い)。
実際に掛かった費用の総額は多分1人で70万円位だったろうか?勿論借金もしたが我ながらこんな大金をよく貯めたものだと思う。当時の私の年収分にも近い金額だったのかも知れない。当時ドルのレートは300円位だったと思う。
そしてあの時に東急観光のツアーを使ったことが結果的に安かったかどうかは少し疑問だ。余分な費用と感じた項目も有りクレームをつける積もりでいた。しかし私はクックに登って帰国したらもうどうでも良いという気持ちになり結局強いクレームは行わなかった。
(追記1)
もし費用が70万円だったとするとツアー代金プラスに現金を15万円持って行ったことになる。しかし当時の出発時にそんな高額の現金を持っていける余裕があっただろうか?と疑念が湧いてきた(笑い)。そんなことを考えていたら10万円という金額が思い出されてきたので65万円位だったのかも知れない。
帰国した時には手持ちの軍資金は殆ど残っていなかった。
その使った内容は
〇東急観光で予約したクライストチャーチとハワイ・ヒロのホテル以外の、プラトーハット、アーウインハットとYHの宿泊代。
〇航空券以外のバス、列車賃とプラトーハット移動のセスナ代。
〇別にミルフォード・サウンド等の観光代。 ムートン等の土産代。
〇それに約30日分の食料代であった。
<10万円で足りたのかなぁー??>
ちなみに今回妻と二人のNZ・8日間ツアーでは費用が一人約39万円だった。ハーミテージにも2泊し、クインズタウンの展望レストランで食事をするなどし、お土産も何だかんだと買い込んだ今回の旅は40年前の我々には考えられない程の豪華な観光旅行だった。
当時と比べて現在日本の平均所得水準は10倍位にはなるのだろうか? 1ドル300円だった為替も110円程度となっている。
果たして手が震える程に感じたあの時の65万円は今と比べて安かったのだろうか?高かったのだろうか?
勿論安い筈はなかったが、我々にとっては十分価値ある65万円だったろう。
又、出発直前になり人事課に呼び出された。この遠征に当てようと貯めてあった20日余りの有給休暇が使えないことになった。事前にはOKだと言われていたのに長期間を一度に取る前例になるので認められないと、欠勤扱いにすると言われた。だからといって今更止められるわけがない。腹が立ったが仕方がない。
その為に帰ってきた翌月の給料が殆ど入らず苦労をするという余計なオマケも付いた。
◇トレーニング:
勿論それまで以上に山に出掛けトレーニングもした。クックの雪と氷と岩がミックスした登攀を意識して、谷川や穂高の岩登り、富士山の雪上訓練、日光の氷瀑登りなどを繰り返した。今考えると良く体と時間が持ったものだと思うが、それも若さ故だったからだろう。
出発直前のトレーニングは谷川岳頂上からマチガ沢にザイルを垂らし、急斜面の雪壁の登り降りだった。
「マチガ沢上部」
当時の日本ははまだ第一次石油ショック後の混乱の最中だった。出発前日に職場の上司に呼ばれ「今は会社もどうなるか分からない。もしお前が休んでいる間に人員整理などという話しが持ち上がった時には、自分にお前の身柄を任せてくれ」という話しをされた。それには理解出来たので「その時には任せます」と了承した。
まだ職を掛けて山に出掛けるという時代だった。(現在でも山となると事情はそれ程変わっていないのかも知れないが・・・)
S部長が「登り三分で下りが七分だよ。下山に気を付けて」と最後のアドバイスをしてくれた。
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6,出発 NZへ
1974年12月13日:成田はまだ開港していなかった。羽田空港18時10分発の日本航空JL771便の座席に座った時は、アー、ヤット出発だ!!と大きく息を吐き出す気分だった。
「海外遠征は出発できたら半分は成功」といわれることがある。まさに実感だった。
生まれて初めて乗る飛行機がダグラスDCー8型だった。乗り込む前には大きな飛行機に見えたがエコノミーの座席は思ったより狭く体の大きい外国人がよくこれで大丈夫だなと感じた。座席数は左右2列で多分150席位だったようだ。乗客は半分ぐらいで途中からは1人で2座席分が使えた。それでも夜行列車の座席で横になって寝るよりは窮屈だった。
「今から赤道を越えます」のアナウンスにオー!南半球に来たと感動し。オーストラリアの上空に入り下を見ると砂漠や畑で、ウトウトと一眠りしても下には同じ景色が続いていてオーストラリアの広さに驚いたりした。
尚、余談だが我々の乗った写真のJALのJA8051号機は3年後の1977年9月17日に墜落している。クワラランプールでの事故で80人近くの犠牲者が出ている。
しかしその翌日に日本赤軍のダッカ日航機ハイジャック事件という大事件が起きた。そのためか、このクワラランプール墜落事故のことを私は殆ど覚えていない。その墜落した飛行機が我々の乗った飛行機だったとは・・・。今回それをインターネットで知った。本当にネットには何でも載っている。
14日:11時間余りの飛行でシドニー空港に到着した。着陸するとオーストラリアの2人の係官が機内に乗り込んできた。防虫スプレー缶を両手に持ち機内の通路を前から後ろまでスプレーしながら歩いた。害虫がオーストラリアに入り込むことを防ぐためなのだそうだ。あれでどれだけ効果があるのか?とそのお役所仕事的なパフォーマンスが面白かった。
クライストチャーチ行きの乗り継ぎ待ち時間中に「シドニー空港」で事件があった。我々は手荷物の重量対策として登攀用具をボストンバッグに詰め込んで機内に持ち込む手荷物にしていた。中身は岩用とアイス用のハンマー4本と多くのハーケン、カラビナなどの金物ばかりで見かけよりはかなり重かった。(現在は機内に持ち込めないと思うが)
空港で係りのおばさんが多分親切からだったのだろう、床に置いてあったそのバックを持ち上げようとしてドスンと落とした。すると凄い形相で何か怒鳴り我々を睨み付けたのだ。どうやらバックを落した時に爪が剥がれたらしい。彼女には悪いことをしてしまったと今でも思っている。
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7,クライストチャーチで
エアーニュージーランド機でシドニーを出発し、約3時間位の飛行でクライストチャーチ空港に到着した。
降り立った「クライストチャーチ空港」は国際空港だがローカルな感じで静かな空港だった。現在のクライストチャーチ空港は、2011年のラグビーワールドカップ開催の為に全く新しくなった。だがその年にあのニュージーランド大地震が起き、結局クライストチャーチではワールドカップの試合は行われなかった。現在の空港は大きすぎて何か閑散とした感じがする。
ニュージーランドは農業国なので食品類の持ち込みにはついて厳しい。入国時には事前に用意をした食料リストで説明した方が良いと言われていた。
税関でリストを係官に差し出すと「Seaweed(海苔)」が引っ掛かった。私の英語の説明では埒が明かない。同じ飛行機に乗っていた三菱商事の人が丁度後ろに列んでいてその人に説明をして貰い海苔を没収されずに通過した。
「丸さんの本」にも通関時に海苔を自分で食べて見せたり、係官に強引に食べさせようとしたりして切り抜けた話しが載っている。ニュージーランドは食品の国内持ち込みに対し厳しいことは現在も変わりがない。
空港の外に出るとTシャツの若者が歩いていて特に暑くもなく爽やかな感じだが、12月の日本から来た我々には矢張りニュージーランドは夏だが街は「クリスマスシーズン」だった。ところがコートを着たおばあさんも歩いているではないか。
一日に四季があるといわれるこの国に入国して、これからの複雑であろう気候のことを思った。同時に個々人のアイデンティティーというような物を感じた。日本の様に一斉に衣替えをするというような習慣は勿論無いのだと・・・。
◇ステーション&パーク・ビバーク:
我々はクライストチャーチに到着した一日目の宿は予約しなかった。飛行機の到着時間が遅れ予約がキャンセルになることを心配したからだ。
最初の一日目はステーション・ビバークをすることに決めていて、そのことを特に不自然とは考えていなかった。土合駅や水上駅の床やベンチにシュラフを敷いてビバークするあの感覚だった。
クライストチャーチ駅は石造りで天井が高く立派な建物だったが駅に人はほとんどいなかった。早速待合室のベンチに寝袋を拡げて横になったが夜の11時頃だったと思う、駅員からもうホールから出ろと駅の大きな扉を閉められてしまった。我々と一緒に追い出されたホームレス風のおじさんもいた。
仕方がないので公園ビバークをしようと夜中の街を歩いていると、パトロールする二人連れの警察官に出会った。こちらが山登り姿だったせいか特に怪しまれることもなく、警官は無線で何か連絡をしていたが親切に公園の方向を教えてくれた。
我々は大きな公園の木の下でシュラフに潜り込んだ。その公園は有名なハグレー公園だった。
「これは後日にダニーデンの警官と」 「ハグレー公園を流れるエーボン川」
(職務質問をされてるわけではありません)
暫くすると10m程離れた公園の暗い道に人が何人か集まって話をしてる、その内にパトカーがやってきて人々が警察官に何か話をしている様子だ。しかし警官がこちらに来ることはなく、集まっていた人達もパトカーもそのまま引き上げていった。私は暗闇のシュラフの中から目だけ出して一部始終を見ていた。Iは寝ていてその騒ぎに気が付かなかったそうだ。
想像するに通行人が寝ている我々を不審者だと思い警察に通報をした?だが来る途中で会った警察官が「二人の日本人が公園に向かっている」と無線で連絡をしていた?のかも知れない。もし公園に来る途中であの警官達に会っていなかったら職務質問でもされて起こされていたのかも知れない。
そのあと私はグッスリと寝込んでしまい目が覚めた時にはもう明るくなっていて公園の道には多くの人が行き交う場所だった。
◇クライストチャーチにて
翌日からは予約してあったモーテルに入った。二階に2ベットルームがあり、階下にバスとキッチンに広い居間という随分立派な「モーテル」で2泊した。
クライストチャーチはイギリスよりイギリスらしい街といわれている。大きな公園やグラウンドが幾つも有り落ちついた綺麗な街並みだ。
装備類のチェックや食料買い出しの合間には市内の観光をして歩いた。
肉屋で1ポンド(約450g)1ドルの「特売牛肉」の値札を見てその安さに感激して(笑い)2枚買い込んだ。モーテルのキッチンで焼き塩味だけで食べたりした。そのステーキだけで腹一杯になった。
居間に荷物を拡げて 「装備チェック」をする。
2011年のニュージーランド大地震で崩壊してしまった「大聖堂の塔」にも登って街を眺めた。街を歩くと家々の花壇には「Keep Clean」と書かれた小さい札が目立っている。又カモやカモメが道路を平気で歩いたり飛んだりしていて目を引いた。鳥も大事にされているのだろう。
普段日本では行ったことのない「植物園のバラ園」ではバラが満開だった。山道具屋を冷やかし、カンタベリー大学のキャンパスで寝転び、モーテルのオーナー夫妻にドライブに誘われて丘の上からクライストチャーチの街を見に行ったりもした。
タクシーで出掛けた南太平洋の広い海岸の様子は「丸さんの本」に書かれている通りだった。
真夏の海岸だというのに人の姿がほとんど見えない。夏の海水浴場といえば江ノ島の”イモの子洗い”を思い浮かべる日本人としては静か過ぎて何か違和感を感じる光景だった。
でも「ニュージーランドの南太平洋」を見た私は感激した。
今思うとこれからクックに登りに行くというのに随分と余裕でノンビリとしていたものだ。
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8,クック村で
ニュージーランドは南島と北島からなる島国で日本の約7割の国土で当時の人口は約300万人位だったと思う(現在は約450万人)。
クックは南島のマウント・クック国立公園内のタスマン氷河右岸に位置する。
「マウント・クック国立公園」
「ガイドブックの地図」
登山基地となるクック村はクライストチャーチからはバスで5〜6時間の距離にある。標高1500mに位置し、ハーミテージホテルとパークレンジャーのいるビジターセンター(VC)にユースホステル等がある。
現在村の人口は約300名だそうで、ハミテージ・ホテルには20人位もの日本人がは勤めているそうだ。当時の人口は判らないが勿論日本人従業員はいなかった。
現在は道路が整備されているので下のトワイゼルの町から1時間をかけてマイカー通勤の人もいるそうだ。
「中央にクックのピークを望む」 「改築前のハミテージ・ホテル」
12月17日:朝、クライストチャーチをバスで出発した。
乗客は「若いバックパッカー」が多く、途中でバスを乗り換えたティマルでは彼等が率先して荷物の載せ替えを手伝っていた。
休憩中に町の通りの魚屋をのぞくと大きなロブスターを売っていて、値段を聞くと1ドル50セントとあまりに安いので買うことにした。
しかし支払いの時に2ドル50セントを請求された。どうも値段を聞き違えたらしかった。でも15ドルの聞き間違えでなくて良かった(笑い)。
サウザンアルプスの山々が近付いてきてテカポ湖岸を走り、最後に激しく揺れるガタガタの河床を通り過ぎしばらく走ると、バスはMtクック・ユースホステル(YH)前に到着した。
「Mtクック・ユースホステル」 「現在のアオラキMtクック・ユースホステル内」
予約してあったYHは夏のシーズンで満員だった。冷蔵庫には扉が閉まらないほど食品が入れられていて、大きな牛乳ビンが飛び出ていても誰も気にしていない。
ロビーのテーブルにティマルの町で買った「ロブスター」をひろげて食べた。でも節約旅行中の若者達が見るている所でだ、随分と嫌みな日本人だったろうと思う。
荷物を置き、歩いてすぐのVCに挨拶に行き計画書を渡し入山届けをした。VCではクック登山のベースとなるプラトーハット小屋の使用を申し込み、使用人数がオーバしていないので我々は小屋に入れることになった。
レンジャーから夕方に又来るように言われた。夕方行ってみると特別だと言われて、既に小屋に入っていた日本人登山者と無線で交信をさせてくれた。
そのY氏は1週間くらい前からプラトーハットではない小屋に入いっていて、飛行機が飛べないのでプラトーに移動ができないとのことだった。そして結局クックには登れなかった事を帰国後に聞いた。
「ビジターセンタ前の芝生でよくゴロゴロしていた」
(現在は勿論建て替えられいて、博物館が併設されている)
その晩にYHでビックリポン!!な事に遭遇した。日本のYHでは男女が同室になることは絶対にない。しかし割り当てられた4人部屋の反対側の2段ベットが若い女の子だった。
それだけでもビックリだが、彼女達は寝る前に着ている物を脱ぎ、ブラまで外してパンツ一つになってからベットのシュラフに入ったのだ。部屋の明かりは消してはあったが我々から見えているのにだ。彼女達のこだわりの無い自然さに対し、純情なる日本男児の方はシュラフの中で固まってしまった。
これはこのニュージーランド遠征でクックの登頂にも並ぶ出来事だったと思っている(笑い)。
プラトーハットではラッセル達がパンツ一枚の姿で小屋の中を歩き回りそのまま寝袋に入っていた。YHの彼女達も同じような感覚だったのかも知れないが、彼等の寒さの感じ方も我々日本人とは違うらしい。
12月18日:VCで山の情報を聞き、足慣らしにハーミテージからの標高差約1000mのミューラーハットまで出掛けた。途中に「シーリー湖」という名前が付くが池みたいに小さな湖がある。
水はきれいで泳げるという。我々は泳がなかったがあのヒラリーは20才の時に初めてハーミテージを訪れ、ここで泳いだことを書いている。
その湖畔でショートパンツ姿でハイキングで登って来たオーストラリアの娘さん二人連れと肩を組んで一緒に写真を撮った。
さらに登るうちに右側のミュラー氷河の対岸に聳えるマウント・セフトンが迫ってきて、その急な山腹から懸垂氷河が迫力を持って山肌を落ち掛かっている。これが本物の氷河か!!とそのダイナミックな光景に見入った。
VCで注意をされた急なガレ場を登り切りミュラー・ハットに着いた。グリーンとオレンジ色に塗られ外側はブリキ張りのこぢんまりとした小屋で、登山者が1人いた。
夕方にはYHに戻ってきた
「ミューラーハット」
「Mtセフトンに掛かる懸垂氷河」
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9,アーウインハットで
12月19日:天気は良いのだが風が強くてグランドプラトーまでのスキープレーンが飛べないという。しかもその晩からは予約をしていないのでYHに泊まれないと告げられた。シーズン中なのでYHは予約で満員だったのだ。仕方がないので取りあえずYHの前でビバークすることにしてその準備をしていた。
そこへゴミを集めの小型トラックがやって来た。そして5Km程離れているが山岳会のロッジがある。お前達はそこに泊まるか?と聞いてきた。我々は勿論OKだ。そのトラックの荷台にゴミ収集缶と一緒に載せられてニュージーランド山岳会(NZAC)ロッジのアーウインハットに向かった。
そのアーウインハットが以後我々がクック村を離れるまでお世話になりクック村のベースとなった。YHよりズット大きな建物でホールにいたのは皆登山者の男女だった。このロッジで沢山の人達と出会い友達になった。
日医大隊のメンバーもここをベースにしていた。
「アーウインハット」
「ロビー表側からクックを望む」 「裏側のキッチン」
ガラス窓に日本の3−5倍はありそうな大きなハエが止まっていた
現在のアーウインハット、キレイに改装(改築?)されていたが昔と変わらない感じだった。
(2016/01)
「見せてもらったロビーもキレイに明るくなっていたが雰囲気は昔と同じだった」
今になって思うとあの時は、「今晩から宿無しになった日本人が外で寝ようとしている」とYHから誰かが連絡をしてくれていたのかも知れない。
クック村には近くに天場が無かったが温水のシャワーが出る場所が在りこの国の登山者などに対するしっかりとしたサポートを感じた。
上高地では無料のシャワーなど見たことが無い。
尚、YH前の芝生でビバークをしようとした時には確認をしたが、特に駄目だとは言われなかった。しかし今年の旅でもクック村でテントを見かけなかったので、キャンプが禁止されているのかも知れない。
「右が郵便局、その左の建物がシャワー室」
(NZでも郵政が民営化されクック村の郵便局も廃止された。現在この元郵便局の建物はアルペンガイド達のトレーニングルームとして使われているそうだ)
◇アーウインハットで出会った人達
(追記2)
○ <ラッセルとピーター>
最初に話しかけてくれたのがラッセルとピーター達で、ロッジ前の道路で一緒にランニングをした。
12月20日この日もセスナは飛べないと連絡がきた。ラッセル達からアイス・クライムのトレーニングに行くので一緒に行こうと誘われ、彼の車でボール氷河に向かった。
タスマン氷河右岸ににあるボールハットに着くと、小屋の前の広場には氷河見物の観光客が沢山来ていた。
(当時の立派な小屋は1977年に焼失して、現在のハットはシェルター程度の小さな小屋のようだ。)
登攀装備を付けてボール氷河に向かいトレーニングができる適当な大きさのクレバスの中に入っていった。初めて手に触れる本物の氷河の氷だった。アイスハンマーとピッケルを氷に打込み12本爪アイゼンの前爪を蹴り込んでみると氷に吸い付く感じだ。
日本の水が凍った氷と違い、冬には50mともいわれる降り積もった雪が長い年月で押し固められて氷化した氷だからなのだろう。両足の爪で氷に乗ってみても全く落ちる感じがしない。そのままノーザイルで20m程の氷壁の上まで登ってしまった。
その間にラッセル達は上に支点を取りザイルで確保する準備をしていたが、我々がノーザイルで登っているので少し驚いた顔をしていた。
そして彼等も確保しながら登りだしたので我々も矢張り確保した方が良いかな、とその後はザイルをセットして登り降りを繰り返した。彼等が誘ってくれたお陰で氷の良いトレーニングとなった。
彼等と一層親しくなった。
「ボール氷河を登る」 「ラッセル」 「ピーター」
ラッセルさんにはクック村からクライストチャーチに戻った時に彼の実家に招待された。夜にお父さんが車で向かえに来てくれた。
彼はガイドになりたいと言っていたが、希望通りにその後ガイドになりヨーロッパに渡った。今は世界的な登山家になっている。
ラッセルより年上のピータは物静かで落ちついた鉱山技師だ。数年後に仕事で来日した彼と東京で再会することができた。
○ <ロールとクリス>
次に話しかけてきたのがロールとクリス達だった。それはラッセル達が登山靴をキッチンのオーブンに入れているのを我々がビックリして見ている時だった。保革油が靴にしみ込み易くしていたのだろう。
そこへロールが寄ってきて「俺たちはあんなことはしない」と苦笑い気味に話しかけたのだ。キーウイー(NZ)のクライマーが皆あんなことをことはしないヨ。ということを日本人に知らせようとしたのかも知れない(笑い)。
ロール(ROLL)の名前のRとLの発音の違いを、舌を振るわせて繰り返しクリスが教えてくれたことを思い出す。
ロールさんからも招待をされてオークランドの家に泊めてもらった。家族や友達が集まってホームパーティーを開いてくれた。翌日には彼のミニクーパーでオークランドを案内してもらい、我々は翌日の夜にNZを後にしたのだ。
彼は翌年世界旅行の途中に日本にも来た。我が家にも泊まり二人でに穂高を縦走し、日医大のメンバーとも一緒に富士山や京都に行ったりした。今はアメリカの大学の先生をしている。
○ <ラッキーとデーブ>
オーストラリア人のラッキーとデーブ達は後からロッジに入ってきた。彼等は下界では裸足姿のワイルドでタフな二人組だ。(オーストラリアやNZではいつも裸足のライフスタイルの人達が今もいるようだ)
当初、彼等は我々を少し馬鹿にする態度を示していた。どうせ英語が通じていないだろうと思っていたのだろう。私の目の前でデーブが「此奴等にクックが登れるわけがない」というようなことをピーターに話しかけた。ピーターが「彼等はノーザイルで氷壁を登っていた」とフォローをしてくれていた。(英語がよく通じなくても悪口は良く分かるものだ)。
我々が下山して2−3日後に、彼等はノースリッジ・ルートを登ってアーウインハットに戻ってきた。すると年上のデーブが「Your are clibmers!」と笑顔で握手を求めてきた。私は「You too」と握手を返した。お前達がクックに登ったので認めたヨ!、ということだったのだろう。
只、当時の我々はノースリッジの難ルートを登った彼等の快挙にピンときてはいなかったのだが。
我々が1次アタックに失敗してプラトーハットに戻って来たときに「お前達はノース・リッジを登ったのか?」、と先ず聞いてきたのは先に登られてしまったかと心配してだったのだろう。
ロッジの前で4人一緒の写真を撮り彼等はオーストラリアに帰って行った。
○ <ステファンソン先生>
アーウインハットでは思いがけない人とも出会った。「丸さんの本」に出てくるスティファーソン先生だ。丸さん達がプラトハットで出会ったユニークな人だ。丸さん達は登山後にニュージーランドをレンタカーで周った時、オークランドで彼の教える高校を訪問している。その時に丸さん達は一人暮らしの先生の広くない家にギュウギュウ詰めで泊めてもらった。隊員10人全部が家には入れず1人は車の中で寝たなどの楽しい話しが書かれているその人だった。
食堂でDepressed(不景気)の単語がわからず私が苦戦しながらの会話していた相手がその人だった。
周囲にいた日医大隊のメンバー達にも「丸さんの本」のあの先生だ!と伝えると皆も寄ってきた。
貴方は日本で有名人だと話すと笑っていた。
○ <佐伯文蔵さん>
もう一人このロッジで出合った人と心に強く残る言葉がある。
それは日本医大隊に同行していた剱沢小屋先代主人の佐伯文蔵さんの言葉だ。
「ニュージーランドの山小屋のようにナイフやフョークを備え付けておける小屋を日本にも作りたい」
私はその話に当時日本の山小屋の雑踏を思い。もし日本の無人山小屋にナイフやフォークの食器具類が備え付けてあったら、情けない話しだがアッという間に一本も無くなってしまうのだろうなぁー、とその思いを感じた。
◇クック村を去る
我々の当初計画ではクックを登ったあとも丸さん達のようにタスマン氷河沿いの山々を出来るかぎり登る予定だった。しかしクックを登って私は気が抜けた。
前回と同様に良く晴れていたが風が強く直ぐセスナが飛ばなかったこともあり、その後の登山計画を取り止めて予定より早くクック村を離れることにした。
村を離れるまでの数日間はロッジから毎日VCの売店やハーミテージとの間をヒッチハイクしたり50分くらい歩いて行き来した。
記憶には無いのだが当時のハーミテージホテルには所謂ドレスコードが有ったのかも知れないが、我々はホテルのロビーから先には入らなかった。
「クックがハーミテージのガラス窓に映る」
なのでホテルのレストランで開かれた大晦日のニューイヤ・パーティーにも我々山屋達は中には入れなかった。それでホテルの床下部分(笑い)の一階にあった登山ガイド案内所の隣の部屋に皆が集まり新年を迎えた。日医大隊も残っていたので半分以上が日本人だったが、各国の山屋が集まって年越しパーティーらしくビールを飲み大騒ぎをした。
その晩は月光の冴える中を皆で日・NZの歌を歌いながらラッセルの乗用車でロッジまで戻った。車には超定員オーバーの10人ぐらいが乗り込んでいたと思う。
ニュージーランドでも飲酒運転は交通違反なのだそうだが・・・。
さすが今のハーミテージだ、部屋でNHK・BSが見られて当時大関の琴奨菊関初優勝の瞬間ををニュージーランドで見られた。
昔は無かったヒラリー卿の銅像や記念館、部屋の窓ガラスには小さなヒラリーのシールが・・・
(2016/01)
クック村を予定より数日早めに離れることにしたので、余分な登攀用具などを郵便局から日本へ送り返す。
「村への80号線を郵便局に向かう」
(正面はMtセフトン)
後日談、郵便局から送った一斗缶に詰めた荷物は我々が帰国して2週間くらいたってから日本に着いた。連絡を受けて東京駅近くの郵便の税関に受け取りに行った。
すると一斗缶はデコボコで、蓋も開けられていて中の荷物がグチャグチャでひどいことになっていた。不審物と見られて中をかき回され調べられていたのかも知れない。
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10,NZを巡る
1975年1月4日:二十日間近くいたクック村を離れ、南島の南部を周るためにバスでクインズタウンに向かった。クインズタウンでは夏期間だけ開かれるYH(学校の講堂か体育館だったとおもう)に泊まった。船に乗りミルフォード・サウンドの一日観光ツアーや、羊牧場のシープドックショーなどの観光をして歩いた。
「ミルフォードサウンド」 「日本紳士」
(この姿ならハーミテージもOK?)
「多分 ワカティプ湖」 「シープドックショー」
「ラーナック城」 「ダニーデン駅」
ダニーデンのニュージーランドに唯一の古城、ラーナック城の見物など南島の南部を巡り、ダニーデンからは列車でクライストチャーチに戻った。
当時ニュージーランドも国有鉄道だった。その乗った列車で車掌の思い出がある。列車は結構混んでいて検札が回ってきた。その太った中年の車掌は上着の前ボタンも外したままで帽子もアミダにかぶりで笑顔などは全くない。この乗客へのサービス精神など全く感じられない車掌の態度に、ニュージーランド国鉄もその後の日本の国鉄と同様に先は永くないなと思った。
暫くして戻ってきたその車掌にいきなり腕を掴かまれて訳が分からないまゝ、引き摺られていく様に連れていかれた。すると空いてる座席が有りここに座れと我々を座らせた。その車掌はどうせ英語が通じないだろうと無言で空いた席に連れて行ってくれたのだ。随分乱暴なサービスだったがその車掌を少し見直した。
(勿論日本の国鉄にはこんな車掌はいな。西部劇映画に出てくる悪徳車掌ぐらいだ。)
1月7日:クライストチャーチでニュージーランドのお土産といえば羊の毛皮のムートンだと教えられてムートン工場に直接買いに行った。工場の大きな倉庫にはまだ皮に血が付いたままの物もあるムートンが山積されていた。好きな物を自分で選んでくれと言われ、買ったムートンは直接日本まで送ってもらった。
(そのムートンは私の椅子にズーット敷かれていたが、一昨年に汚いからと妻に処分されてしまった。)
1月9日:ニュージーランド航空でクライストチャーチから南島を離れ、北島のNZ最大の都市オークランドに着きロールさんの家に泊めてもらう。
1月10日:翌日はロールさんにオークランドの街を案内してもらった。
彼のミニクーパーでオークランドを走り回る。
目の前の島へハイキング。オークランド大学。
オークランドでも植物園。
博物館には第二次世界大戦中イギリスの名戦闘機スピットファイヤーと一緒に天井から吊された日本の零戦が展示されていて驚いた。
「当時のオークランドで最も高いビル」 「ランギトト島のハイキング」
(勿論現在はスカイタワーや高層ビルが林立している)
その翌11日の夜20寺50分発 パンアメリカン航空機(今は無い航空会社)でNZを離れた。
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11,ハワイから帰国
このツアーでは帰路をフィジー経由か、ハワイ経由かを選ぶことができた。我々はハワイを経由して帰ることにしていた。
ハワイ島には富士山より高いマウナケア山(4205m)がある。帰り道でハワイの山に登るというオマケが付いた。
1月11日:日付変更線を越えたので同じ1月11日の7時15分にホノルル空港に到着した。
入国審査でイミグレーションの別室に連れて行かれた。
日本語通訳が呼ばれて滞在日数を聞かれたので再び5日間と答えた。
すると審査官から苦笑い気味に「良い旅を」と握手を求められて放免となった。
5日間を5週間か5ヶ月間とこちらの発音も悪すぎたのかもしれないが相手が聞き違えたらしかった。
何しろこちらは髪も髭も伸び放題の汚れた胡散臭い奴だ。
入国審査官としては怪しい日本人と予断を持って審査に当たっていたとしても仕方がなかったのかも知れない。
ハワイ島のヒロ行きの飛行機を待つ間に
ワイキキビーチへ行った。
我々は海屋ではない。山屋なので有名なワイキキビーチには特に興味は無かった。
でもバスでワイキキの浜に向かった。ビキニ姿の海水浴客のいる砂浜で、登山靴を脱ぎ足だけを海の水に付けて一応はハワイの海にも入った。
13時00分発、ハワイアン航空機に乗り、40分余りでハワイ島のヒロ空港に到着した。
ハワイアン航空はこの少し前に機体の屋根が吹き飛ぶ事故があったことをテレビで見て知っていた。
出発前にスチュワーデスが行う例の救命胴衣装着動作の説明がおしゃべりしながらで可成り適当だ。
あの操作手順は正確に行う事が世界的に決められていると聞いていたので、きちっとしたJALのスチュアーデスとの違いに少し不安を感じた。でもそのうちにあれがハワイアン流なのだろうと納得することにした。
「ハワイアン航空機」
(最近は機内のディスプレーに写った説明を見るだけに変わっているので、生の実演姿を見られなくなったが)
◇マウナケア:
山頂には各国の天文台が沢山建っており、現在は日本のすばる望遠鏡もある。山としては全く難しくはなく、登山というよりなだらかな高所ハイキングという感じの山だった。
車で海抜0mから一気に4000m近くの駐車場まで上ってしまう。高山病や悪天候の「注意看板」が立っていた。
「その付近には雪があり常夏のハワイで雪遊びをする家族連れが沢山来ていた。」
そこからは舗装されてなく一般車両が入れない広い道路を歩いて行くだけだったが高度の影響だったのだろう頭痛を感じた。
ただっ広い頂上には天文台のドームがいくつもあるだけで、雲でまわりの景色は何も見えなかった。
もしもっと晴れていれば360度下の方に海の絶景が見えたのだろうか?
寒いので天文台のかげで行動食を急いで食べて何の感動もなく頂上から早々に走り下りた。
「マウナケアを下る」
下山してからマウナケアがこんな山なら帰路をフュジー経由にすれば良かったかな?と少し後悔をした。
当時評判になっていた、森村桂の小説「天国にいちばん近い島」のニューカレドニアに近いので少し雰囲気を感じられると思ったのだ。
(でもフィジーが同じフランス領の島だと思っていたのだが実は英領だという事をこれを書いていて知った(笑い))
◇出会った日系移民の人達:
〇ヒロの町の通りでおじいさんに「何しに来たのか」と日本語で話しかけられた。移民一世の人なのだろう。
「マウナケアに登りに来た」と答えると「マウナケアより富士山の方が高い」と言う。我々が「イヤ、富士山の方が400−500m低い」と話すと、おじいさんは「そういう事になっているが本当は富士山の方が高い」と何度も繰り返す。
故郷の日本の事をより優位に思いたいおじいさんの気持ちを感じて、我々はそれ以上の否定はしなかった。何か切ないものを感じた。
〇スーパーで行動食のドライフルーツを探している時に、おばさんに「あんた達何で栄養が無いドライフルーツを食べるの?フレッシュなフルーツを食べなさい」と少し乱暴な感じでお説教をされた。我々は笑いながらわかりましたとその場を離れた。
多分日系2世の彼女の日本語の言い回しが少しキツかったのだと後になって気が付いた。そして確かに彼女が言うように常夏のハワイでわざわざ乾燥フルーツなど食べる必要はないのだから。
〇最後にヒロの郷土博物館で説明員をしていた若い女性だ。彼女は我々が日本人と判ったのだろう。英語の説明の途中に時々こちらを向いて日本語の単語を入れてくれる。
この旅で今も私の心に残る清楚で可愛いお嬢さんだった。彼女は説明の時の単語以外には日本語を話さなかったので日系三世なのだろうと思った。
◇帰国:
1月14日:9時35分発、
アロハ航空機でヒロを発った。島の反対側のコナ空港に寄ったので機上から活火山のマウナロア山と、下には溶岩の流れた跡の黒い広大な大地が見えた。
「右がマウナロアで左がマウナケアだと思います」
15時25分発、日本航空機で東京に向かいホノルルを出発し、日付け変更線を再び戻った。
1月15日:19時20分、羽田空港に無事到着し、
我々の一ヶ月余りのクック遠征が終わった。
長く休んでいたので職場に申し訳ないと思い、翌日から出社した。
だがひどい時差ボケが出た。仕事中急に心臓が異常な鼓動を起こしたりしてひどくキツイ一日となった。
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あとがき
最後までお読み頂き有難う御座居ました。
この遠征記について今年の旅行で鮮明に思い出されてきた事とは別に、古い資料が出てきたり、書いているうちに思い出した事もありました。残る関連資料や地図も見直したり、帰国時に贈られて拾い読み程度にしか見ていなかったクック登山史の本や、現地の書店で買ったクック登山の写真集などを読み直したことで、新たに知ることが出来た事もありました。
そして記憶違いも多くありました。例えばプラトーハットからの下山ルートです。資料写真と地図を何度も見ているうちに広い雪原をトラバースした時の情景がハッキリと目に浮かんできました。それで実際は今まで思い込んでいたボール氷河とは違い、ハースト氷河を下っていたことなどです。
最近は人の名前などが思い出せない事が度々です。それがあんな昔のことを鮮やかに思い出すことは面白いことです。
しかしどうしても思い出せないこともあります。それはあの手荒な車掌と出会った鉄道は何処から何処まで乗ったのか?
でした。今回の旅の途中でも線路などを見るたびに、一生懸命思い出そうとしましたが駄目でした。
ところが先日、ダニーデンのYHを電話でキャンセルした事を思い出しました。“キャンセル”の単語が思い浮かばず大汗をかいた電話でした。そしてその後のバス移動の記憶がありません。状況証拠的に(笑い)あの車掌と出会ったのはダニーデンからクライストチャーチに移動する鉄道車中だったことになります。
20代の終わりに行なった私達の遠征でしたが、好天にも恵まれてMtクックに無事登頂できたことは幸運なことだったと思います。
そして面白い経験を沢山できた旅でした。それは若さが成せる業ということだったのでしょう。最大とは言わなくても我が人生にとって大きな出来事だったのだナァー!と改めて感じている今日この頃です。
ー終わりー
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<参考文献>
「Aorangi」 Jim Wilson 1968
「ニュージーランドの山旅」 丸山晴弘 1968
「A LAND APART」 G Harris/G Hasler 1971
「MOUNT COOK NATIONAL PARK」 H・E・Connor 1973
「ヒラリー自伝」 サー・エドマンドヒラリー 吉沢一郎・訳 1977
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