ー2015年以前の駄写真集−Var10.2
< 2015年 初冬 > 日本の標準時子午線通過地の明石市に旅した。 すぐむこうに「明石海峡大橋」が良く見えた。 播磨灘のタコ達は強い潮流に鍛えられ、立って歩くそうな、 その明石だこが入った「明石焼」(玉子焼)も食べてきた。 明石焼は出汁につけて食べる。タコ焼きより上品だった。 7月2日が「蛸の日」だそうだ。 東経135度を跨ぐ 「135度 行ったり来たり 明石蛸」 というところでしょうか。 |
< 2015年 秋−2 > 信州の安曇野と、会津地方の秋と温泉の旅をした。 昔の仲間との集まりが有り数年振りの信州だった。 新しく出来た岩崎ちひろの美術館も訪ねた。 外にデッキチェアーが並んでいて、そこで大いびきの一眠りをしてきた。 その広く気持ちの良い公園を前にしながら。 2日後に知人の招きで会津に出掛けた。 今まで知らなかった会津とラーメンも堪能してきた。 安曇野ちひろ美術館 会津・観音沼森林公園 「安曇野も 会津地方も 秋盛り」 というところでしょうか。 |
< 2015年 秋−1> リュウゼツランの花 お盆で群馬の田舎に行った。親戚の庭でリュウゼツランの花が咲いたというので見に行った。 数十年に一度だけ開花するという大変に珍しいことだそうだ。そしてこの後この竜舌蘭は枯死してしまう。 つまり一生に一度だけ咲く黄色い花だ!! この花の咲き方がドラマチックだ50年前に植えた小さな株が1m位に大きく育っていた。 その株の真ん中から今年の五月頃に急に真っ直ぐな木の幹のような花茎が伸び出した。 それは3ヶ月足らずで高さが7mにもなった。そして8月の初めに黄色い花が次々に咲き出したそうだ。 重さのために真っ直ぐに立っていられず傾いてしまっている。 地域の新聞でも報じられ一寸したパワースポットとなっている。 我々もそうだが幸運を授かろうと訪れる近隣の人も多いそうだ。 リュウゼツランの全景 リュウゼツランの花 根元に出てきた次世代の若い株 堅い厚い葉の養分を一気に花に送り間もなくその一生を終わるわけだ。 その枯れ始めた根元の葉の脇からは小さい次世代の若い株が出ている。 竜舌蘭はメキシコの強い酒、テキーラの原料としか知らなかった。 リュウゼツランの力強い次世代交代の姿に感動した。 「華咲かす 五十年目の 竜舌蘭」 というところでしょうか。 |
< 2015年 6月 > 2011年3月11日あの大震災から4年余りが過ぎました。 2年振りに陸前高田の友を訪れ、三陸を旅しました。 全線が復旧開通した三陸鉄道・南北リアス線(三鉄線)にも乗ってきました。 帰路は常磐自動車道経由で帰りました。 2年前、陸前高田には瓦礫の山が沢山あった。 今、三陸には美しく穏やかな海と、 茶褐色のかさ上げの為の土の山が次々に現れる。 「まるで三陸砂漠だなぁー」と感じた。 三鉄南線の恋し浜駅と甫嶺駅間の海と復興の看板と土の山 三鉄南リアス線 三陸駅 2015年6月3日午後の放射線量 5.5μSv/hは我が家辺りの100倍ぐらいの放射線量だ。 福島の浪江あたりの帰還困難区域ではオートバイでは走れない。 車でも途中は車外に出ないで通り過ぎなければいけない。 もし事故で車外に出るときも放射性物質の貯まりにくい所で待つ。 (茂みや水たまりが放射性物質の貯まりやすい所) 放射線を自己責任で浴びて通行することが出来る自動車道路ということになる。 小さい子供などを乗せて走るのは控えた方が良いのだろう。 「4年過ぎ 越えてはけない シーベルト」 という現実を忘れてはいけないでしょう。 |
< 2015年 はる > 今年も春が来ました。 桜によく似た花のお隣の杏が満開です。桜より二週間ぐらいは早く咲きます 桜が咲きだす頃には道一面の花びらです。ご近所の椿も花の形がそのままで幾つも落ちています。 たまに桜の花びらは掃除するのが大変だ、などという話を聞く。 秋の銀杏の落ち葉掃除と同じ様に考えるからでしょう。 武士は椿の花がそのままポタンと落花するその様子から、切腹の際の落首を連想した。 それで庭に椿を植える事を忌み嫌ったそうだ。でも道一面に落ちた花びらには名残惜しさを感じさせられ、 それも中々なかなか良い物です。まして路面の花びらは雨で流されてしまうのですから。 −おまけの桜です− “サクラ吹雪”は普通は花びらがヒラヒラです。でも近所のグラウンドでは一面に花がポトンポトンと落ちています。 これは花の蜜を舐めにきた鳥達に落とされた花だそうです。確かに山鳩や椋鳥が沢山飛んで来ています。 地面一面に落ちたサクラ、こちらも趣ありです。 「落花見て 無粋を言うな 春なのに」 というところでしょうか。 |
< 2015年 冬 > ドドッドォーと突然の音! 今年の初雪、屋根に積もった数センチの雪が、朝日を受けて一遍に落ちた音だった。 外に出ると地面に落ちた雪の前で我が家自慢のドウダンツツジの枝だけが冷たい風に揺れている。 でも近づくと枝の先の全てに蕾みがふくらみかけてている。 “外は風が冷たい” などと縮こまっている人間とは違い、確かな自然の力強さを感じた!! まだまだ寒さは続きますが。 (左) 屋屋根から落ちた雪 (右)ドウダンツツジと小さな蕾み 「まだ寒い ツツジの芽達 待ち構え」 というところでしょうか。 |
< 2014年秋 > 「住まば日の本 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半」 明治の文人、大町桂月のこの歌を知って 奥入瀬渓流の紅葉を見に行かなければと約50年前に思った。 予定したこの2日間とも青森地方は雨の予報だった。 でも日頃の行いがものを云った!!雨は降らなかった。 時折太陽の日差しさえある中、念願の奥入瀬の秋を歩けた。 確かに流れと道路の高さが殆ど同じ高さだ。これが十和田湖までの三里半 約10キロ続く。 直ぐ脇を通るバスと車には興ざめだが・・・ 2日目は文字通り抜けるような快晴になり急遽、八戸駅ではなく新青森駅経由で帰ることにした。 途中バスを下車して八甲田ロープウエイに乗った。 広大な八甲田山麓、陸奥湾と下北、津軽の両半島そして正面に岩木山の展望を満喫した。 「住んでる日の本 行ったよ十和田 歩いた奥入瀬一里だけ」 というところでした。 |
< 2014年夏 > 3度目の沖縄の旅をしてきた。 最初はまだ沖縄が日本に復帰する前の49年前だった。 東京から夜行列車で鹿児島まで行き、その後24時間の船旅でヤット那覇の港に着いた。 ユースホステルに泊まり、路線バスと徒歩で沖縄を歩いた。 2回目は最初の時の仲間達と39年ぶりに夫婦連れで再訪した。 初めの時にはとても行けなかった石垣島にも飛行機で渡った。 今回の旅は夫婦二人だけで沖縄本島をレンタカーで廻った。 前後左右を走る車が皆レンタカーだらけという事もあった。 ー 名護のシンボル「ひんぷんガジュマル」ー 推定の樹齢は320年だそうだ。初めて眺めた時も大きくて凄いと思った。 それから約50年分だけさらに大きくなっているのだろう。 (高さ19メートル、枝の直径30メートル) ー 南部・平和祈念公園の「平和の礎」 ー 最初の旅では「ひめゆりの塔」を訪れた。 首里城も、当時は激しい21年前の戦いで破壊された石垣がわずかに残るただの高台だった。 復元されたばかりの「守礼之門」だけがポツンと建っていた。 当然この「平和の礎」はまだ無かった。 黒い石に刻まれた白い名前の沖縄戦で亡くなった人々約24万人という。 その数に圧倒される軍人、住民、敵味方や国籍にも関係なくその死を示し悼む これが本当の慰霊だろう ー 本部半島の「美ら海水族館」 ー この大きさと迫力のジンベイザメを見るだけでも十分に出かけていった価値がある 旅の2日目に沖縄は梅雨が明けた。 カッと強い日差しで周りが海の沖縄の夏は蒸し暑かった。 「様変わる 沖縄の旅 梅雨あける」 というところでした。 まだ戦後20年目で日本復帰前1965年3月に行った時の守礼之門の写真が出てきた。 勿論復元された首里城はなく石垣も殆ど崩れたままだった。 復元されて間もない門だけがポツンと建っていた。 |
< ’14年春 > 蓬 摘 み この年は大雪が2回も降り、桜が散ったころ。 トトロの森にも近い所沢シャングリラで少し遅い蓬(ヨモギ)摘みに行った。 (シャングリラは私が勝手に名付けた所沢の桃源郷です) 「まだ足りん 餅に入れるぞ 蓬の葉」 というところでした。 |
< ’13年 > ネパールの子供達 2013年の春インドとネパールの仏跡をめぐるツアー旅をした 釈迦生誕の地、ネパールのルンビニ村の小学校を訪問した まだ日本より豊かではない国なのかも知れない でもこのように輝くマナコ達にこの国ではあまり出会えない。 「何とまあ キラキラキラと この眼(マナコ)」 *詳細は「八大仏跡の旅」のページにあります。 |
< ’13年、 夏 > 唯一現存のオリジナルの零戦来る 所沢の航空記念館に世界で唯一の「栄」というオリジナルのエンジンで実際に 飛行が可能な零戦61−120号機がアメリカから来ていた。 1万機以上作られた零戦は。現在世界中に多分20ー30機くらいが復元されて残っているようだ。 でもその殆どは飛べない。飛べる2−3機は新しいエンジンを載せている。 「只一機 残る零戦 所沢」 というところでしょうか |
< ’13年、 春 >三春の滝桜 樹齢が約千年という三春の滝桜を見たいと思っていた。朝5時起きで 片道約290キロの三春に向かった 例年より早く咲き始めた滝桜はほゞ満開で天気も良しで、平日なので この程度の人出、土日はもっと混雑するそうだ 「ドンピシャリ ついに見るなり 滝桜」 というところでしょうか。 |
< ’12年、 秋 >大 相 撲 市の体育館の相撲場に、相撲さんが数日来て稽古をしていた。角界の名門 春日野部屋だ 我々の世代では、あの栃若時代の横綱・栃錦の部屋だ。 両手両足をすべて使えという指導が耳に残った。 朝稽古が始まる 写真のお相撲さん、栃ノ心関 眼光の鋭さ! 稽古最後のお相撲山の整理体操?? 「朝稽古 陽光浴びて 汗キラリ」 というところでしょうか。 |
−’12年 春− 4月初旬陸前高田にいる昔の仲間を訪ねました。 私達はあの大津波の凄まじさをテレビで何度も見ました。でも実際に現地に 立つと遙かに広くて大きな災害だったことを実感しました。 勿論復興の兆しもうかがえましたがまだまだ大変な状況の被災地でした。 そんな中で毎週の土日に来て瓦礫の撤去などの作業をしているボランティア活動の 人達に頭が下がりまました。 「大津波 地をのみ尽くし 今荒涼」 と感じました。 一日も早い復興をを願っています。 |
−’12年 正月− <この写真は私の写真でないので駄写真ではありません> 今年は寒い冬でした。梅の開花が1ヶ月も遅れているところもあるそうだ!! もうお彼岸というのにまだ寒さが戻っています。 2月でしたが山の仲間から志賀高原のスキー行のメールがとどきました。 地獄谷野猿公苑のお猿の温泉での写真が添付されていました。アッ!良いナー 俺も行きたいなー と感じる寒い毎日でした。お彼岸前の今日でも、 ヤッパリ行きたくなる寒さです。 「お猿さん 俺も行きたや 温泉に」 というところでしょうか。 |
<’11年12月、黄色いリボン> 毎日新聞「余録」で年末恒例の2011年のいろはカルタの「の」は「のど元過ぎて 原発再稼働?」 だった まったく我々日本人は忘れっぽい!! ジッと自分たちの頭の上を非難の嵐が 通り過ぎるのを待っている原発ムラ住民の姿が目に浮かぶようだ。 でも我々が忘れ、”しょうがない”と諦めて原発の持続を見過ごすのは、 子供と孫達に対して、原発ムラ住民と同じ無責任なことになるのだろうと思う。 あの事故後に在日欧米人など諸外国政府が、帰国や東京以西への避難を指示した。 当時は随分過剰反応で大げさなことをすると思った。でも彼等の行動は正しかった。 「イエローリボン」の話を教えてもらった。 原発再開に反対する意思表示のリボンだそうだ。早速、黄色のラッピングリボンを 買ってきてリボンを作り、いつも背負っているディパックに結んだ。 皆が”そうだ”と思い。原発なみの資金を注ぎ込めば、 思うより容易に転換できるはずだ。我々日本人の知恵と技術をもってすれば!! 「こんなはず わかっていたのに 事故起きて」 「何バカな 原発事故の 想定外」 というところでしょうか。というほどの軽い話ではありません。 |
<’11年10月、今年の異変> 未曾有の震災と津波その上の原発事故のおきた今年です 日本各地で季節外れの桜が咲くニュースがあった 我が家の猫の額でも10月だというのに紫陽花と朝顔の花が咲いた!! 厳しい残暑の後に急に気温が下がり叉季節外れの暑さが ぶり返したせいらしいが新たな天変地異が来ないかなどと気になります。 「どうしたの 紫陽花咲くや 今年の秋」 というところでしょうか。 |
−’10年 2月 旧交通博物館− 2月に秋葉原に行き元の交通博物館の前を通った。 白いフェンスに囲まれたあの交通博物館の建物が解体されていた。 カメラを持っていなかったので、ほとんど使ったことのない携帯写真で思わずパチリ大きく口を開けた建物が、 丁度解体される機関車のようだ!神田川沿いのレンガ窓の中でも解体作業をしていた。 今は新しい鉄道博物館が大人気になっている。 でもここにはどのくらいお世話になったろうか。自分の小学生時代、そして子供達が小さかった頃、 何回来たことか!!最初に行った昭和30年代の初め頃、 子供の入館料は5円だったかな〜タダだったかな〜?? 「交通博物館 御苦労様と ジッと見る」 と言うところでしょうか。 |
−’09年 7月 ツバメの巣立ち− このツバメ達が梅雨空に向かって揃って巣立った!! 勤め先の玄関の蛍光灯の笠に、去年からツバメが巣を作り出した。 だが去年はゴミ置き場にたむろするカラス共に、雛の居る巣を襲われてしまった。 雛の成長を見守っていた僕たちはガッカリし、歯ぎしりした!! それでもツバメは今年も再び巣を作りに来た。 まわりに網を張る。キラキラ光る反射板を付ける。 効果が有るのか分からないカラス避けグッツを取り付ける。と、今年は襲撃 カラスに備えた。 そしてハラハラする感じで見守っていた。 「カラス避け 今年は無事に ツバメ発つ」 と言うところでしょうか。良かった!!良かった!!! 今年(’10年)も3月12にまたやって来た!! |
−’09年 2月 浅間山噴火− 浅間山が噴火した!!山頂にそれほど多くない煙がたなびく。夜はかなり赤い 火が見えたそうだ。 山の斜面に見える長三角の黒い影は噴火で雪面に落ちた噴石や灰だ。 神奈川、東京など関東各地にも粉塵を降らした。 「浅間山 雪に影さす 噴火あり」 と言うところでしょうか。 |
−’08 正月− いつも正月は群馬の田舎に行きます。 浅間山を望む良く晴れたピリット寒い朝です。 庭の葉を落とした木の枯れ枝に真っ赤な烏瓜が ぶら下がっていました。思わず一写!! 最近は栗や柿も採られないままに沢山残っています。 「冬空に ぶら下がりおり 烏瓜」 と言うところでしょうか。 |
−’07 秋− 07年の夏がいくら暑くても秋がヤット巡ってきました。 温暖化が進み、秋も来なくなるようなことにしなければ 紅葉やススキにも秋を感じますが 高麗の巾着田の曼珠沙華の群落が有名なこともあり 私はその真っ赤な花に秋を感じます。 近くの不老川にも曼珠沙華が咲きます。 鴨も遊んでいます。 有名な高麗のように人混みもなくて勝手に穴場と決めています。 「鴨遊ぶ 土手に今年も 曼珠沙華」 というところでしょうか。 |
−’07夏− 我が家の玄関先の小型火鉢に暮らすメダカです。 冬は薄氷が張り、夏には煮え立つような日差しの過酷な環境です。 でも毎朝元気よくエサを食べに水面へ上がってきます。 それにしても暑いこの夏でした!! 「うだる夏 食欲落ちず メダカくん」 というところでしょうか。 |
横浜みなとみらいに係留されている日本丸です。 青い空に浮かぶ白い雲と白い帆船、少しは涼しそうですか でもこの写真を撮った日も暑かった!! |
−’07正月− アッ、という間に正月が過ぎました。 それにしても寒くないこの冬です。 <10年前、信州・塩尻の小正月(どんどやき)の風景です。 今年の写真ではありません> 「達磨さん 寒くて熱い 小正月」 というところでしょうか。 |
2006年05月14日に 神田万世橋の交通博物館が閉館になりました。 子供時代と、我が子が幼い時も御世話になりました。 挨拶代わりに久し振りで最後の博物館に行ってきました。 |
−’05秋− 中秋には見事な満月を見ることができました。 月下美人が咲き、見せてもらいに出掛けた。 先ず妖艶で強烈な香りが鼻に入ってきた。 花の香りは実際に見ないと感じることができません。 「中秋に 月下美人の 白姿」 というところでしょうか。 |
−’02夏− 松本の山仲間から届いた写真です。 だから駄写真ではありません。 安曇野の初夏です。何とも気持ちの良い気分です。 このような風景も徐々に変わっていくようです。 「風ぬけて 安曇野の朝 気持ち良し」 というところでしょうか。 |
−’01夏− 我が家の二階から入間川の花火が良く見えます。 でも途中にマンションがあります。 「二階席 上がる花火に 邪魔タンク」 というところでしょうか。 |
−’01春− 近くに桜が見事な稲荷山公園があります。花が咲いてから季節外れの遅い雪が降りました。 朝早く写真を撮りに行ったら、雪の積もった桜の木の下でもう席取りをしている一団がいました。 「お花見や 遅雪横目に 席を取る」 というところでしょうか。 |
−’01冬− 雪の多い冬でした。 我が家のいつも風をうけてプロペラを回している白鳥orアヒル??? 君です 「嗚呼寒い 何だか重い この冬は」 というところでしょうか。 |
−’00夏− 田舎で茄子の出荷作業の手伝をしました。 ”俺を写してどうするんだ!!”と怒っている。 <これは駄被写体です> 「盆休み にわか農業 ナス選果」 というところでしょうか |