◇2,見て触れた遺跡群

この旅は仏跡を巡る旅なので、レンガ造りの遺構や復元された遺跡、
そして土の小山などを毎日訪ねて歩いた。

10世紀頃からのイスラム侵入によって破壊を受けなかったインドの仏跡は少ない。
そして仏教が衰退し破壊された仏跡は忘れ去られ土中に埋まった。

インドは19世紀中頃からイギリスの植民統治を受けることになる。
そのイギリスにより設立されたインド考古調査局により
広くインド内の遺跡が調査・発掘をされる事になった。
考古学調査とはいえ、当時は多分に宝探し的な面があった。
そのため随分乱暴な事も行われていた。
記録も十分されずに無闇と掘り返され、出土品が持ち去られたりした。
いわゆる盗掘ではなくてだ。
又、ストゥパの真上や真横から中心に穴を開けたり、
工兵隊がダイナマイトで爆破して中の遺物を探し出したりもした。

◇現代インド考古調査局の注意書き看板


でもそれらの発掘や調査が無かったなら、仏跡も現在の様な形では残っていなかったかも知れない。
つまり我々のこの仏跡を訪ねるツアーも無かっただろう。
持ち去るだけの植民統治だけではなかった、往事大英帝国の懐の深さを感じない訳にはいかない。

◇サルナートのダメーク・ストゥパ

高さが31m余で今は修復されて立派なストゥパだが、ここも頂上から穴を開けられた。

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◇釈迦が苦行から離れた地・スジャータ村のスジャータ・ストゥパで
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歩く地面にレンガの破片が落ちている。
これが千年昔の仏跡に使われていたレンガだと思うと、
一個拾って持ち帰りたい衝動が湧いてくる。
イカン!イカン! 
もし訪れる観光客の皆が1個ぐらいは、と記念に持ち帰ったら、
百年も経たないうちにこの遺跡は消滅してしまうだろう。
ドロボウ博物館などとも言われる有名な博物館がある、
その真似をしてはイカン!! と思い留まった。

◎この旅で一番の誘惑に駆られた

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ネパールのカピラ城址で
カピラ城東門趾                                 愛馬・カンタカ塚

王子シッダルタ(釈迦)が出家するまで暮らしたカピラ城
この東門から愛馬カンタカに乗って出城して出家した。
門跡の右側に立つ大きな木の向こうに見える僅かな盛り上がりがカンタカの墓だという

でもこの門は王城の門としては少し規模が小さいと感じた


◇ティラウラコット遺跡
(ネパール側のカピラ城址とされる地)

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発掘作業中のティラウラコット遺跡で
発掘責任者でネパールの仏教遺跡の権威者パサンダ・ビダル氏と出会う。
発掘中のトレンチの説明を直接してもらう。

◎この旅で一番の幸運だった


まだ発掘調査がされていないという地表に露出したレンガの上を歩く

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その夜、ビダル先生が我々と同じルンビニ・ホッケ・ホテルに泊まっていた。

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日本語訳された著書「救済の聖地・ルンビニ」をホテルで購入してあった。
その本に先生のサインと名刺をもらう(ミーハー並だったかなー?!!)

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◇遺跡あちこち
サルナートのチャウカンディー・ストゥパで                      ラジギール・霊鷲山で
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突然インドの仏跡に響いた尺八の音が胸に浸みる!!
同行のI氏は世界各地の旅に尺八を持参して演奏しているそうだ。
現在あるこのレンガ作りのチァウカンディー・ストゥパも、
元々は仏教のストゥパでその上に築かれたイスラムの塔だ。

◇ブッダ・ガヤ    
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夜8時過ぎに到着したマハボディー寺院、
このLEDのイルミネーションとライトアップは何なのだ!テーマパークなのか?

◎この旅で一番の違和感を感じた

このガヤ大塔は侵入してくるイスラムに対し、仏教徒は全てを土で蔽い隠したそうだ。
その小山の頂上には大塔の頂上にあたる小さな石塔だけが出ていた。
その為に発見されることなく破壊から免れた。
東京ドームぐらいの山を作るための土はどこから運んだのだろ?

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  ◇ケサリア・ストゥパ 
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世界最大のストゥパとされるケサリアは発掘も半ばだ
ここもイスラムの進入を受け破壊された遺跡だ
徹底して破壊された仏像群の姿が痛々しい
(左 K氏撮影写真)                       


  まだ発掘と修復の途中だ          黒く変色したレンガは火を掛けられた跡なのか?

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◇ナーランダ大学遺跡 

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7世紀には玄奘三蔵法師も学び教えたナーランダ大学跡、ここもまだ発掘は途中だそうだ

(左)シャリプトラ・ストゥパ                          
シャリプトラはあの般若心経の舎利子で、12世紀ここも火を掛けられて破壊された時かレンガが黒ずんでいる

    (右)厨房の井戸の大きさや、食料倉庫の数から、
12学科を教え学生と先生の数が2〜3万人を擁した時もあるともいう、その規模の大きさを納得する。

矢張り実際に来て見ないとその規模や大きさは感じることはできない。

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◇ラージギール

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釈迦が最も長く活動し多くの仏伝が残るのが旧マダタ国のラジャグリハだ。
マガタ国王舎城・南門跡からラージギールに入った。

◎この旅で最も釈迦を感じた気がした

地下牢跡

コの字形に石が置かれた部分がマガタ国のビンサーラ王が、
王子に幽閉された地下牢の入り口だそうだ。
女王は体に蜜を塗り面会した。捕らわれた王はそれで命を長らえる。
だが後にそれも発覚して王の命が尽きる。

竹林精舎の泉

竹林精舎の庭に湧き出す泉だ
50〜60センチ四方の小さな池で深さも50〜60センチ足らずだろう、
水の中央部に写っている草が水底に生える水草のクレソンだった。
余りに澄んだ水なので岸辺の草ではないかと何度も見て確かめた程だ

◎インドで見た最もきれいな水だった


ラージギールの轍(ワダチ)
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”ローマ・アッピア街道の轍と比べてどちらの幅が広いですか?” と聞くと、
”ローマの方が狭い” と旅のベテランのAさんとHさんが即座に答えてくれる
この轍も発掘が進んでいないので、まだどこに通じる道なのかもわかっていないそうだ。

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◇インド側カピラ城とされる地、ビブラハワ


発掘中のトレンチ(試掘)があちこちにある

カピラ城の位置はここビブラハワのインド説とティラウラコットのネパール説があり長く争われている。
この二つの地は印・ネ国境をまたいで直線距離では13キロと遠くはない

遺跡の規模はこちら側のビブラハワの方が大分大きい。
ネパール側のビダル先生には申し訳ないが、私はこちらのインド側かなぁーと感じた。
学説的にも近年こちらインド説が有力とされているらしい。
ネパール側のティラウラコットは離宮というような位置付けだったのでは??

◎この旅で一番の推理をした

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◇サンカシャー・ストゥパ

サンカシャの遺跡は昔、釈迦が天界の母マーヤ夫人を訪れ、三ヶ月後に天界から戻った地とされている。
多くの仏伝の中では一番現実離れした神秘的で不思議な話だ。

だからここも元々は仏教のストゥパで、今はヒンドゥー教徒が使っている
この日はお祭りで沢山のヒンドゥーの人達が塚に上っていた。

塚の上に置かれていた仏像の足部分。
現在もこのように足部だけがきちんと置かれているのも不思議だ
釈迦もヒンドゥー教の神とされているので、
ヒンドゥー教徒からも敬まわれているからなのだろうか?

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