「居合の誕生」

源義経が牛若丸の頃、鞍馬山で烏天狗を相手に修行していた剣術は何流だったか?
源平や鎌倉の時代にはまだ後の世の剣術いわれるような、体系化された剣術の流派は無かった、これが答えだ。

 時代が下って15世紀の室町時代末期に戦国時代の激烈な実戦経験から、体系化された後世に続く剣術の緒流派が成立してくる。飯篠長威斎の
神道流。愛洲移香斎が陰流。中条兵庫守長秀が一刀流という所謂各剣術の流祖とする流派が起きた。それら流派から塚原ト伝、上泉伊勢守、柳生石舟斎、丸目蔵人左、鐘巻自斎といった剣豪小説でも有名な名人・達人が出てくる。これらから多くの各流各派が生まれ、剣術は江戸時代へと続いていく。

 室町時代末期、永録年間に奥州楯岡の人で
林崎甚助重信という人がいた。親の仇を討つべく百日(千日とも)祈願参篭をしてその満願の日に、神のお告げで抜刀の技を授かり、無事に本懐を遂げた。これが抜刀術つまり居合の始まりで、したがって林崎甚助を居合の流祖とする。(林崎甚助については、何しろ昔のことなので異説も多い)

 多分それまでの勝負では、お互いに「ヤーヤー吾こそは・・」と刀を抜き合ってから、勝負が始まるという形式だったのだろう。それをいきなり鞘の中から刀を抜き放ち、敵を倒すという抜刀の技が彼の頭に閃いたのだろう。考えて見れば、いきなりそれを相手にやったのでは随分卑怯にも見える。しかしスポーツではない戦いとはそういうものだろう。相手の考えないことを先にして、敵を倒す。石器の時代に青銅の剣を使う。刀の時代に鉄砲を使う。鉄砲の時代にミサイルを使う。どれも負けた方に取っては、卑怯でかなわない話である。



「無双直伝英信流」

 その後居合は、現在にも続く田宮流、無外流、長谷川英信流などの多くの流派が起き、幕末から明治に至る。その中で7代目に当たる長谷川主税助英信によって起こされた長谷川英信流の流れを汲む居合が、9代宗家の林六太夫から土佐藩に伝わり土佐の地で盛んに行われていた。無双直伝英信流である。
しかし明治の廃刀令などで廃れていく全国の多くの流派の中で、土佐の無双直伝英信流も衰える兆しを見せていた。それを見た時の政治家自由民権運動の板垣退助は、無双直伝英信流の居合を全国無比と感じ、これの復活を唱えた。当時は無双直伝英信流の中興の祖と云われる、第17代宗家の
大江正路である。

 
大江は明治の剣聖といわれ、「西の大江正路、東の中山博道」といわれる程の剣術の名人でもあった。若くして明治維新を経験している。フランス兵にからかわれたことから、慶応4年に土佐藩士が仏艦デュプレクス号のフランス水兵を11人も殺害する「泉州堺浦事件」、と言う事件に加わっていた。フランス側は加担者の処刑を求め、新政府は切腹を言い渡した。しかし処刑の時に大江の前の切腹者がその腹から腸を引きずり出し、処刑の立会いをしてたフランス人に向かって投げつけた。ビックリして耐えられなくなったフランス艦長は日本人は切腹を誇りにしている、続けても無駄だともう処刑はしなくてよいとその後の切腹を取消した。11人が切腹をして、残った大江等9人は切腹をしないで済んだという凄まじい話が残っている。(仏艦長の書簡には腸が飛び出したとは書いているが、投げつけたとは書いていないが・・・)
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大江正路が泉州堺浦事件に直接関わっていないとの指摘を頂きました。大江はその事件を処理する土佐藩士の一員として関わっていましたが、直接関わってはいませんでした。>

 
大江正路は新らたな居合の形も制定し、体育的要素も取り入れた、無双直伝英信流を多くの弟子達に教えた。当時の土佐に於ける大江の権威は大変なもので、居合では門人でもあった山内子爵に対してさえ「山内抜いて見せよ」と呼付けだったそうである。

 
大江が整理体系化した無双直伝英信流は、計70余本に登る多く技を現在まで伝えている。居合の各流派での中には現在は僅か十本程度の技しか残ったおらず、その技を大切に守り続けている古流と言われる流派もある。その中で70本以上の技を今に伝えている流派は多くはない。これも大江が明治期に行なった努力の賜物だろう。さらにこれが無双直伝英信流が現代居合道界において、一大勢力を成すことになった要因の一つでもあろう。
 
大江正路は昭和2年に75歳で亡くなった。穂岐山波雄が次の18代宗家を継ぎ、現在の22代宗家池田隆(聖昂)先生に至っている。

 又、無双直伝英信流の地の高知県では、19代宗家福井春政から20代竹嶋寿雄先生に継承され、土佐直伝英信流として現在は21代宗家の村永秀邦先生に引き継がれている。



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