小伝あとがき

 大田先生が亡くなられてから今年で17年目になる。東京大田区の蓮沼駅から程近い大田先生のお宅を訪ね、入門を請うたのが昭和40年の秋だった。以来、先生が亡くなるまでの20年近くを、居合の弟子としてだけでなく先生に接することができた。

 先生の土佐直伝の居合は荒々しくさえ見えるほどに大きく豪壮であった。我々はその技に魅せられ少しでも近づきたいと目指し、そして先生の居合を誇りにしていた。
しかし何と言ってもその人間性に先生の魅力が有った。あの頑固で厳しい反面の優しさと楽しさが、多くの弟子達を引きつけたのだと思う。私は失礼ながら「この現代の古武士のような面白い人は、これからの時代には現れることのない人だな」、と常日頃先生に接しながら考えていた。その頃の思いをこの「大田次吉小伝」として、インターネットの場に書き表してみた。
お読みになって、大田次吉という面白い人がいたんだな、と知って頂けたならば幸いだ。

 当時、稽古場は大田区の蓮沼近くの幼稚園や中学校であった。
私は以前新宿に住んでおり、勤務先の板橋区の志村から蓮沼まで、つまり東京の北の外れから南の外れまで都心を縦断して毎週2回の稽古に通っていた。そのため稽古に使う自分の刀を持って会社には行き難かった。
そこで先生のお宅に刀を預かって頂いていた。だから稽古の度に先生の所に寄り奥様から刀を出して頂き、帰りには又預かって頂きにお宅に寄り帰ることが数年続いた。
先生が居られるときは、「小林チョト寄って行け。」と言われたり、「先生、お伺いしたいことがあります。」とよくお部屋にも上がらせて頂いた。この小伝はその様な折々に、先生から直接伺った話を主にまとめた。

 しかしいざ書き始めてみると正確に思い出せないことや、詳細な関連がハッキリしないことが沢山出てきて困った。
そこで下書きの拙文を読んで頂き、西本昭夫・落合忠男・下原康男・山田昌雄・大沼陽一・中川正治・田中博美・杉浦薫の緒先生や剣兄の方々、さらに大田先生の御子息の大田賢一氏からもお話を聞かせて頂いて、ここにアップ出来たことにお礼と感謝を申し上げます。
 
 特に攻玉社中学時代からの大田先生をご存知の落合先生には、お宅まで押しかけて色々なお話と、思い違いなどを訂正して頂き、より大田先生の人柄に近付けたことを深く感謝致します。
 内容は皆さんから伺ったことも含めて、私の一存で拙い文章にしたものだ。従って内容については全て私の責任に帰します。

 尚、プロ写真家で大田先生の書かれた「土佐英信流」の写真も撮影された、杉浦薫先生が保管されていた大田先生の居合姿の写真を提供して頂いた。ページ上で在りし日の先生の姿をしのぶことが出来たことに、お礼を申し上げます。

 もしこのことを大田先生に話したら先生は何と言われるだろうか?「小林ションモナイことをするな!」と土佐弁で言われるのか、苦笑いをされて黙って見ていて下さるかは知る由もない。
 会社の仕事が忙しくなったことを理由に稽古をしなくなり、大田の居合を極められなかった悔恨と慙愧の念をこめてアップした。
                        小林士郎  2001/09/20


追記) その後、中田敏之氏にお話を伺う機会を得た。中田剣兄は大田先生の晩年に最も長く近くに仕えられた。拙文を読んでいただき私の記憶違いと知らなかったエピソードの一つを教えて頂き、訂正と追記をさせて頂いたことをお礼申し上げます。
併せて我々が見、聞きした先生の人となりを記した「大田次吉小伝」に引続き、先生の居合の事績を「大田次吉先生居合小史」として是非まとめておきたいと考えている。
                                 2002/02/24
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