「我が愛刀」

昭和40年11月、大田次吉先生の元に同級生三人と一緒に入門した。

稽古の初日に木刀を持参して初めての居合の指導を受けた。
稽古の終わる頃、落合忠男先生がこれで抜いてごらんなさいと真剣を貸してくれた。
生まれて初めて真剣を腰に差して、教えられた真似をして抜いてみる。何とか鞘から抜けたが思っていたより刀は長い。さて納刀だ、恐ろしくて切っ先をなかなか鯉口にもって行けない。これはエライ!事を初めてしまったと思った、自分にこんな危ない事が出来るのだろうかと正直思ったものだ。

入門して一、二ヶ月の間は木刀と一本の摸擬刀を三人で使い回したりして稽古を続けていた。その居合刀は今のように使い易い物ではなく、いうなれば刀の形をした鉄の棒という感じの代物だった。
そして稽古を続けるうちに居合は真剣でやらなければやっている意味がないと思うようになった。

居合いに使う刀の長さは二尺三寸ぐらいが良いそうだ。”二尺三寸、二尺三寸 ”と唱えながら刀屋まわりを始めた。銀座の刀剣柴田の店なども恐る恐る覗いたりもした。二尺三寸は有るが重要美術品などの美術刀剣だ。当然私に手が出るような値段の刀など無かった。

浅草の国際通りに骨董屋が在るぞと誰かが教えてくれた。以前浅草には国際劇場という松竹歌劇の劇場が在った。その大通りの向かいに骨董屋が数軒並んでいた。

”長さが二尺三寸の刀は有りますか?”と聞きながら店を訪ねて3軒目の骨董屋で”有るよ”と店のオヤジさんの返事。早速錦の刀袋から取り出して見せてもらうと、鞘が黒くなくて馬鹿に目立つ白い鞘で卵の殻だという。刀身も姿が少しアンバランスに見える。振ってみると調子も余り良い感じではない。でも二尺三寸なのだ。この際贅沢などいえない。

肝心の値段を聞くと7万円とのことだ。今7万円と聞いてもそれほどではない金額だが、当時の私の給料はまだ2万円以下だった。だから現在の金額だと40〜50万円ぐらいに相当するのだろうか。7万円は私にとっては大金だしそのあても有るわけではなかった。手持ちの2−3千円を内金に入れて”他の人には売らないように”とオヤジさんに頼み店を後にした。

さて7万円の大金をどう集めるか?それが問題だ。取り敢えず現金は1万円ぐらいしか無い。だが当時、親しい近所の人からそれまで収集していた切手帳を売ってくれないかという話が持ち上がっていた。その頃までに発行されていた日本の記念切手が殆ど収集してあったストクブックで2万円でどうかという話だった。昨今のように記念切手を乱発する以前なのでそれほど多量の枚数では無かったが全部で数十枚だった。明治・大正期の数枚だけがまだ足りないという収集だった。戦前の古い切手を死んだ祖父が持っていた。その他は私だけで集めたわけでなく父親や弟とも一緒に集めていた大事な切手帳だ。
父にこの切手帳を売っても良いか、と聞くと”いいよ”と言ってくれた。今思うとなぜあんな簡単に許してくれたのかが不思議だ。
この2万円を足してもやっと3万5千円だ。7万円の半分にしかならない。すると父が”それで骨董屋に話してごらん”という。

一週間後、再び浅草の骨董屋を訪れた。店のオヤジさんに”どうしてもこれだけしか集まらない”、どうにかならないかと話した。当然”それは無理だヨ”とうの返事だ。それなら負けてくれないか、残りは月賦で払うのでどうかと私は粘った。後にも先にも物を買うのに私が、あんなに粘ったことは無いような気がする。私にとっては後に家を買った時よりも、一世一代の買い物だった。(大笑い)

すると”持っていって良いヨ”とオヤジさんが言ってくれた。月賦もいらない、と刀を錦の刀袋に入れて渡してくれた。私は信じられない気分だったが礼をいって店を後にした。
読書百編・・・ではないが「願い百編 意ついに通ず」というところだったのか。
しかし後で考えると店のオヤジさんも損をしてまで私に売ってくれるわけがない。仕入れた価格は私が買った3万5千円よりは安かったのであろう。

後日談があるが、2〜3年後にこの店に寄った時、オヤジさんに以前7万円の刀を3万5千円で売ったもらった事を話すと、覚えていないという。でもその刀を持ってきたら30万円で買い取るヨ、と現物を見もしないで思いもよらない話をされた。勿論私は断った。
当時の日本はバブルに向かう時代で刀剣の値段は一
年で倍になるなどと言われていた。だから2〜3年前に7万円の値を付けた刀なら、現物を見なくても30万以上では売れるはずだとオヤジは踏んだのだろう。そんな時代であった。

その刀は 刃長:二尺三寸(69センチ)、身幅:区部一寸四厘(31ミリ)横手部七分(23ミリ)、重ね:区部二分七厘(8ミリ)横手部二分(6ミリ)、反り:5分(15ミリ)、亡子長さ:一寸五分(45ミリ)、重さ:二百八十八匁(1080グラム)、樋無し、大刷上げ二ツ穴 という寸法の姿形だ。柄巻きは片手巻で細目で、鞘は白い卵殻研ぎ出しで目立つ変わり鞘。要は長さだけは二尺三寸なのだが、反りは少な目で切先が長いので決してバランスの良いとは言い難い刀だがヤット手に入れた刀だ。この刀が以後永く私の愛刀となった。
刀剣の鑑定もされる落合先生に見てもらうと、九州・同田貫系の新刀とのことだ。

持ち帰ったその夜、部屋の中で納刀をしようとして早速指を切った。大切先で良く刃の立った真剣は、それまでの木刀や偽刀とは訳が違った。
 恥ずかしながらその後何度この愛刀に切られたことだろう。イヤ!自分の不注意と集中の欠如で自分で切ったのだ。手や指を切ったことはは数知れずだが、中でも左手の掌を突いた時と、左の耳を切った時の事が記憶に残る。
後で思い返すと怪我をした時は、必ず余計な事を考えていて集中を欠いている時だ。
掌を突いた時は刀法の切っ先返しを行っていた。受け流して左手を刀の峰に添えるタイミングがズレたのだ。骨に切っ先がゴツンとあたる感じがした。文字道理、顔が青くなっていたと周りにいた剣友からいわれた。幸い筋は外れていたので2〜3針の手術で事なきを得た。
耳を切った時は真夏に大汗を流しながら、左耳に突き込む如き振り冠りの稽古をしていた。すると手の中で柄が滑り刃先がクルリと内側に倒れ、そのままスーと左耳朶を切った。近所の外科で専門でないがといわれて6〜7針縫ってもらった。その後暫く正面を向いて真っ直ぐ前を向いて歩けないのには困った。人間は耳の先が切れただけでもバランスが崩れ、まともに歩けなくなることを知った。
後日、耳鼻科の医者から専門の耳鼻科ではこんな縫い方はしませんよと笑われた。その傷跡は今も私の左耳に残る。

数年の稽古を経たある頃から刀で怪我をすることが無くなった。余計なことを考えていても昔の様に切らないのだ。これは本当に習熟したのか? 只単に慣れてしまって惰性の居合を抜いているのか? 気になるところだ・・・・

 試し切りに使い曲げたこともある。真夏に稽古をして手入れが悪くて一晩で錆びを出させたこともある。居合に使う鞘は消耗品で鞘の上側が刃で着られて孔が開いてくる。今の鞘はが4本目になる。現在使っている鞘は器用な剣友が作ってくれた物で、鯉口にアルミを取り付けたくれた特製品なので長年使っている。

 3年程前から故あって別の刀を使うようになった。その刀には樋が彫ってあり愛刀よりも少し短いので軽くてバランスがすごく良い刀だ。その刀で初めて抜いた時には自分の居合が急に上手になったのかと錯覚した程だ。そして我が愛刀のバランスの悪さを改めて思い知った。
そのような事情から使う頻度が減ってしまった愛刀だが散々お世話になった刀だ、月に一度は抜いてそのバランスの悪さを忘れないようにしている。
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