1)居合との出会い | 2)居合を始める | 3)大江正路を訪ねる | 4)明治〜昭和の居合 |
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5)居合の中断 | 6)武道の復興 | 7)居合の再開 | 8)東京都居合道連盟 |
9)山本門下となる | 10)山本宅治先生 | 11)東京の居合道界 | 12)奥居合の指導 |
13)隆盛と発展 | 14)武道大会 | 15)右手の障害 | 16)国際武道院に参加 |
17)関東地区連盟 | 18)土佐英信流出版 | 19)宗家返還 | 20)東京都連盟その後 |
21)年表 | 22)参考資料 | 23)岩田先生手記 | 24)明武館 |
25)あとがき | 居合に戻る |
大田次吉先生 |
<大江正路(前列左から3人目)と門下の人達> (画像をクリックすると名前が判ります) |
創立時の稽古場は矢口幼稚園の教室を借りての出発であった。所謂最初の幼稚園時代である。稽古を始める前に先ず可愛い椅子を教室の隅に積み上げて場所を作る。そしていくつかの小さな教室に分かれて、天井から吊り下げられた色紙の飾り物などにも気を付けて刀を振る。それを先生が見て回るという稽古風景であった。 | |
<矢口幼稚園> |
<京都大会での山本先生> |
<明治のお二人だ、正面からだと左写真の様に怖い顔でVサインなど出さない!> | |
(昭和51年) |
大田先生とは川久保先生が全居連に参加された昭和41年以降の知己と想われる。年齢は川久保先生が4歳若い。しかし陸軍戸山学校に在籍したこと、シベリア出兵にも参加していたこと、など軍歴に共通する所が有るので意気投合する所があったのではないか。その上、川久保先生の誠実さである。大田先生とは俗に言うウマが合ったのではないか。後に川久保先生は大田先生の葬儀委員長を勤められた。 | |
<川久保先生の居合> |
名 称 | 代表者・(指導者) |
本部 | 大田次吉 |
滝野川支部 | 小勝雅範 |
赤坂支部 | 松浦剛 |
綱島支部 | 木下雅義・(落合忠男) |
自由ケ丘支部 | 鬼原弘義 |
川崎支部 | 大沼陽一 |
府中支部 | 佐藤清・(西知彦) |
銀座支部 | 中屋建興 |
総合警備支部 | 村井恒夫・(山口克夫) |
柏支部 | 棚橋雄平 |
名 称 | 代表者・(指導者) |
三多摩支部 | 川久保瀧次 |
杉並支部 | 高橋大 |
大森支部 | 前橋節夫 |
前田支部 | 前田善太郎 |
豊島支部 | 河西二郎 |
第一回の居合神社参拝奉納演武 昭和46年9月に山形県楯岡の居合神社で奉納演武を行なった。門人一同と東京都連盟の顧問であった刀剣鑑定家の三田光剣先生、同行を希望された中村泰三郎先生を含め総勢26名の居合神社行であった。東根温泉に泊まり、全員が古い昔の社殿内で奉納演武を行なった。 |
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<居合神社旧社殿前にて> (昭和46年9月) |
<社殿内での奉納演武する大田先生> |
第二回の参拝奉納演武 昭和50年9月に行なわれた。大田門下の滝野川、綱島、自由ヶ丘、府中の各支部道場も参加し総勢50名と大人数の参拝となった。そのため社殿での奉納演武は酒井p一・落合忠男・山口克夫の3名が代表で行った。そしてその他全員が近くの農林高校の武道場をお借りして奉納演武を行なった。 天童市内の瀧野湯ホテルに泊まり、将棋の駒作りを見学したり、当時は東京では珍しかった洋ナシを八百屋の店先で食べたリと楽しいものであった。 地元居合道連盟に杉並支部の高橋光男先生の父君、今野与之助先生が居られてお世話になった。今野先生が小茄子の漬物等を態々帰りの車中に届けて下さり、舌鼓を打ったりと記憶に残る楽しい遠征であった。 |
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昭和55年3月、詰合之位を解説したの「土佐英信流」(ペリカン社・A5版159ページ)を著わした。 先生は当初弟子たちの本を出して下さいという言葉に、「本に書かれた事を読んで居合の業が判るわけがない。」、と消極的で中々首を縦に振らなかった。しかし多分誰も出していない詰合之位の解説書ならと、約1年間を掛けて出版の運びとなった。 |
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