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大田次吉先生居合小史。>

1)居合との出会い 2)居合を始める 3)大江正路を訪ねる 4)明治〜昭和の居合
5)居合の中断 6)武道の復興 7)居合の再開 8)東京都居合道連盟
9)山本門下となる 10)山本宅治先生 11)東京の居合道界 12)奥居合の指導
13)隆盛と発展 14)武道大会 15)右手の障害 16)国際武道院に参加
17)関東地区連盟 18)土佐英信流出版 19)宗家返還 20)東京都連盟その後
21)年表 22)参考資料 23)岩田先生手記 24)明武館
25)あとがき 居合に戻る
 2018/10/05 「9)山本門下となる]に 斉藤正先生の追記


大田先生2
大田次吉先生

1)居合との出会い(大正4年)
 大田次吉先生は、明治25年(1892)4月13日。高知県現在の宿毛市に生まれた。昭和59年(1984)10月23日に東京都大田区で亡くなった。92歳であった。明治44年(1911)軍隊に志願し、高知の連隊で約10年間の軍隊生活を送った。

 先生はこの軍隊時代に初めて居合と出会っている。軍曹時代の大正4年、高知城内の武道館・致道館で行われた「高知武徳会大会」で、無双直伝英信流(以降、英信流と記す)の居合演武を見たのである。近代の英信流中興の祖と言われる、英信流十七代宗家大江正路の弟子で、後に十八代の宗家を継承する穂岐山波雄と中西岩樹の居合演武であった。この時先生は自分の目で見て中西先生の居合が特に記憶に残った。その筈である、中西先生は数多い大江正路門下で隋一の上手と伝えられている人であった。

この時に先生は居合を習いたいという強い希望を持った。しかし忙しい軍隊勤務の中ではそれはかなわないことであった。
尚それ以前に上官の伍長に連れられて行った柔道場の道場主が、大江門下の鈴江吉重でその居合を見せてもらったという話もある。

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2)居合を始める(大正13年)
 大正10年に軍隊を辞した先生は、大正11年に日本体育専門学校(現日本体育大学、以降日体と記す)へ入学した。在学中に柔道を三船久三から、剣道は高野佐三郎にという当代一流の先生から指導を受けている。

 大正13年に日体を卒業し、高知県立安芸中学校に奉職した。机を並べた先輩の老教諭に剣道教師の長尾景房がいた。長尾先生は大江正路門下で英信流・居合術の達人であった。先の「大田次吉小伝」(以降、小伝と記す)にも書いたように大田先生はこの偶然に神仏の助けかと感じるほどに内心大喜びした。同僚の柔道の先生と一緒に居合を習いたいと申し出ると、案外簡単に「どうぞどうぞ」と快く承知してくれた。先生は数十年後にも「この時の嬉しさは今でも忘れません。」と書いている。初めて居合を見てから9年目であった。
それから毎日の放課後、長尾先生から指導を受け稽古に励んだ。つまり大田先生の英信流居合の修行は、大正13年3月・32歳の時に始まった。
又、教職のかたわら安芸室戸警察署で武道嘱託として柔道と剣道の指導を行なっている。

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3)大江正路先生を訪ねる(大正14年)
 一年間放課後の稽古に励み正座の部を一通り覚えた。そこで翌大正14年3月に長尾先生の勧めもあり、先生の添え書きを持ち高知市内の大江正路を訪ねている。大江先生は快く迎えてくれ色々と居合の話をしてくれた。そして「自分は高齢なので弟子に抜かせるので御覧下さい。」と弟子の山内豊健子爵邸に案内された。当時の大江先生の権威は大変なもので「ここに居られる方は安芸中学校教諭の大田次吉先生である、山内抜いて見せよ。」と21歳で若いとはいえ山内子爵も呼びつけであったそうである。先生は畳2〜3枚を重ねた上に座らされて、大変恐縮しながら正座、立膝、英信流居合形の演武を見せてもらった。

 この時に火花を散らして刀の刃と刃を合わせる居合形の演武を見て、刀刃が傷んでしまうので「あんな馬鹿なことがあるか」と納得できなかった。演武の後でその使用した刀を見せてもらうと、刀の刃は鋸のようにギザギザになってしまっている。多分先生は既に刀剣にも興味を持っていたのであろう。余計に切り込んできた相手の刀をこちらも鎬でかわさずに、刃で受ける居合形に釈然としなかったのかも知れない。そして先生はこのことをズット疑問に感じていた。数十年後の剣道七段になる頃になってやっとそのことを得心している。それはあくまでも古流の兵法である居合は、剣道とは違い常に「先と先の取り合い」であり、居合形はその形を現していると理解したのだ。

 尚、我々多くの弟子達が理解していた大田先生と大江先生との出会いの事情については。先生が直接、最晩年の大江先生の元を尋ねて入門を請うた。しかし大江先生は「自分は高齢なので直接教えられない」、と弟子の長尾先生を紹介されて居合を始めた。と記憶されていた。しかし先生自身の手記から上記の事情が事実であった。その後も幾度か高知市の大江先生を訪ね話を聞いている。

 更に翌、昭和元年には先生の軍隊時代の親友、西川倍水(ますみ)からも教えを受けている。西川先生は既に大江門下であり、後述するように戦後は復活した高知県居合道の理事長も勤める人である。竹村静雄、田岡伝などの他の大江正路直門の人達からも指導や話を聞く機会があったようである。

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4)明治から昭和初期の居合
 ここで幕末前後から昭和初期の英信流居合の流れを見てみる。戦国時代の永禄年間(約450年前)に林崎甚助重信が考え出した居合術は、その後江戸期には武士の表道具でもある日本刀の操法を修練する武芸として沢山の流派が生まれ、全国各地の各藩で盛んに行われていた。

 土佐の地には林崎甚助から数えて九代目・林六太夫の時の約300年前に伝わった。土佐の英信流は十一代宗家大黒元衛門の頃から傍系ができ、十五代谷村亀之丞の同時代に傍系十四代下村茂市という名人がいた。以来、英信流には谷村派と下村派という呼び方で少し業の違う2つの流れが伝わってきていた。その後もいくつかの流れが発生し、現在世に出回っている英信流の種々な流統図を集めて見ても、収拾が付かない感がある。
今も昔も武術や芸事の流れとは時代を経るにつれて複雑になっていく宿命のようだ。ただ土佐では業に僅かな違いがあるとはいえ、特別に谷村派と下村派を分けて意識するような事はなく行われていたそうである。

 しかし明治維新により明治9年の廃刀令が発布された。それに伴い全国的に剣術と同様で、特に居合術は見る影もない程に衰退を来たした。先の大戦でも前日まで押すナ押すナの賑わいだった街中の剣道道場に、8月15日の終戦を境にパッタリと誰も来なくなったそうだ。多分、明治初期の居合術の衰退はこれ以上の状況だったのであろう。


大江門下集合写真
<大江正路(前列左から3人目)と門下の人達>
(画像をクリックすると名前が判ります)

 このような状況の中で高知においては、時の政治家・板垣退助が旧土佐藩の居合であった英信流居合が廃れる事を惜しみ、天下無双であるとして存続と奨励を図った。そのため上述のように十七代宗家で現代居合の中興の祖ともいわれる大江正路の努力もあり、土佐の英信流・居合は再び盛んになってきた。剣道教師の大江先生は最初下村派の修業をしていて、後に十六代宗家の後藤正亮の門下となり十七代の宗家を継承した。

 当時既に剣道家として名を成していた剣道範士中山博道は明治42年頃そんな高知へ出向いた。最初に下村派の行宗貞義の元に行き英信流居合の教えを請うた。しかし行宗先生から門外不出なので教えられないと断られる。そこで更に大江正路の元を訪ねて頼んだが大江先生からも「兄弟子の行宗が教えられないと言うものを、自分が教える事は出来ない」と断られた。旧土佐藩の時代には英信流の居合を修行している事は家族にも告げないほどで、藩外に出すことを固く禁じられていたそうである。従ってこの対応は行宗先生や大江先生としては当然であったのだろう。だが中山先生は大江先生から4〜5日間稽古の見学を許され、致道館で英信流の居合を見て帰京した。この事情は世に広く知られている。

 そして後に中山博道は東京で下村派の流れをくむ細川義昌(国会議員)と谷村派の森本兎久身等から英信流居合を習うことが出来た。中山先生は明治の剣聖と言われる剣道と杖道の名人である。自身で英信流の理合いの不都合と感じるところを研究し、昭和8年頃には自らの起こし「夢想神伝流」(以降、神伝流と記す)と後に命名される居合を、東京本郷の有信館で多くの門人に教えていた。

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5)居合の中断(昭和3年)
 このような時代の昭和3年9月、安芸中学を辞し東京へ出た大田先生は攻玉社中学教諭となった。そして早速、長尾先生からの手紙を携えて本郷の有信館道場を訪ねた。当時東京には英信流を教える所はほとんど無かったようである。常に何についても一流の求めて止まない先生が、当代一流の名人中山先生の元を訪ねることは自然なことだったのであろう。

 だが上述するように有信館で教える居合は、先生が土佐でそれまでに習ってきた居合とは違っていた。大田先生が習った土佐式の居合では、これもダメあれもダメと1つ1つ直されて結局3日通っただけで入門はせず、先生は東京で居合の修業を続けることを諦めた。
その後は校務も忙しく僅かに年に1〜2回校内の剣道大会等で、攻玉社中学の中学生を前にして模範演武の居合を抜くのみであった。

 ここで興味深いことは先生が有信館を訪れるに当り、長尾先生が中山先生への手紙を託した事が先生の手記に書かれていることである。高知と東京に在る長尾先生と中山先生が直接面識があり知己の関係であったとは考え難い。すると長尾先生が手紙を書いた背景として次のような事が考えられる。それは当時土佐(高知県)の地では中山先生の居合についての認識が、細川義昌などから下村派の居合を習った人、という認識ではなかったのかということである。つまり当時土佐では英信流の谷村派と下村派の違いついて、上述したようにお互いにそれほど意識をされていなかったので、東京の中山先生も同じ英信流の修行者だと考えていたのではないか。そこで長尾先生は東京に出る自分の弟子の大田先生を紹介する手紙を書いた。しかし中山博道は上述したように自分の居合を起こした時期であり、土佐の居合は違うと言うことになるのは当然であった。
大田先生が居合を中断することになった背景としてこの様なことが想像できるのであるがどうであろうか?

 尚、現時点(2002/09)で確認は出来ていないが、長尾先生は大江先生の下村派修業時代の弟子であった可能性がある。そうすると大田先生が最初に習った居合は下村派であったことになる。

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6)武道の復興(昭和29年)
 昭和20年の敗戦により連合国軍総司令部(GHQ)から、ある期間以上軍歴に有った者は学校の教員をすることが出来ないという命令が出された。所謂「公職追放」である。そのため長く軍歴にあった大田先生は、長年勤めた攻玉社中学を辞する事になった。そして昭和22年頃に柔道整復士として蓮沼名倉堂を開院し以後先生の生業となった。

 占領軍の命令で柔・剣道を初め武道も禁止命令が出され、当然居合の稽古など到底できないことになった。もっとも明治の廃刀令の時に次ぐ居合道の危機的な時代であった。同様に日本刀も所持できないことになり、没収された刀が荒縄で縛られた山のようなに積まれて海に投棄されたりもした。美術品としての刀剣にとっても最大の受難の時代であった。

しかし、早くも武道関係者の努力により昭和23年には第一回全日本柔道選手権大会が開かれている。翌24年には全日本柔道連盟が創立され柔道が復活した。剣道は柔道に遅れること4年後、サンフランシスコ講和条約の翌年の昭和27年に全日本剣道連盟(以降、全剣連と記す)が設立され復活を果たした。

さらにその2年後の昭和29年に全国の各流派を包括する形で全日本居合道連盟(以降、全居連と記す)が設立された。しかしこの設立は戦後一時期はあった全国的に大同団結して居合道の隆盛を図ろうという居合道界の流れが、全剣連と全居連という形で袂を分かつという事が決定的になってしまった結果でもあった。

 大田先生はこの全居連の設立時には参加していない。その情報は当時東京に在住する先生の元には届いていなかったと想われる。

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7)居合の再開(昭和30年)
 先生の居合の稽古の再開は翌昭和30年7月に、当時全居連の高知県理事長であった西川先生が所用で上京し、大田先生の自宅に逗留した。この際に先生は八畳間で西川先生から居合の指導を受けた。これが20数年前に諦めた居合を再開する切っ掛けとなった。同年には全居連にも参加し同時に6段位を印可されたと想われる。

 前述したように西川先生は親友である。そんな関係からその後も西川先生が上京の度に居合の指導を受けた。手紙ではお互いに君・老生と呼び合い、数年後に初めて東京で行う昇段審査会の運営の方法なども、事細かく問い合わせをして教示を受けている。

 翌31年、全居連の全国大会である京都大会で、大田先生は英信流の前十九代宗家福井春政、二十代宗家河野百錬の両先生と山本宅治範士から、東京に於いて英信流を教えることの許しを受けている。
常に筋を通すことを重んじる先生が大会閉会後に、東京で居合を教えることの許しを受けるべく申し出たのだった。このことで我々関東在住者が英信流の居合を先生から習う事が出来るようになったわけである。

 また先生はこの年の京都大会の後に山本範士から「貴方のやる居合は、谷村派と下村派の業が混ざっている。統一した居合をするように」という手紙をもらった。
矢張り上述したように、先生は居合修行の過程で下村派の指導も受けているようだ。
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8)東京都居合道連盟の創立(昭和32年)
 そしていよいよ昭和32年(1957)4月1日。東京都大田区は蓮沼の地で「東京都居合道連盟」(以降、東京都連盟と記す)が発足した。英信流だけではなく、広く居合の各流派とも交流を図ると言う趣旨で、同じ柔道整復士で香取神道流の田村忠吉先生が理事として加わり連盟組織とした。理事長に大田次吉、初代事務局長を西本昭夫とし12名での創立であった。西本の他に創立時会員は酒井p一・渡辺昇・西村総一郎などであった。

西本は医師で、勤務していた診療所の隣に刀剣研師がいた。先生は西本が居合をやっていたことをここで聞き、自ら診療所を訪ねて直接入会を誘った。西本は郷里の愛媛県で光藤時太郎先生から指導を受けていた。そして西本が上述のように事務局長を勤めることになった。

酒井は先生の直ぐ近所で工場を経営しており、ご家族が先生の治療を受けた関係で良く知る間柄であった。西本と共に創立時から先生が亡くなるまで最も長く居合の師事を受けた。
渡辺と西村は攻玉社関係の知り合いであった。
 創立時の稽古場は矢口幼稚園の教室を借りての出発であった。所謂最初の幼稚園時代である。稽古を始める前に先ず可愛い椅子を教室の隅に積み上げて場所を作る。そしていくつかの小さな教室に分かれて、天井から吊り下げられた色紙の飾り物などにも気を付けて刀を振る。それを先生が見て回るという稽古風景であった。
<矢口幼稚園>

昭和35年頃に第1回の昇段審査会が行われた。上述したように西川先生への問合せをして。審査時の演武本数。小学生の初段位の可否。奨励のための高齢者への配慮。審査員をお願いする先生への交通費などといった内容について詳細な回答があり、それを参考にして審査会が行なわれた。
先生が亡くなる昭和59年までの約27年間に、東京都連盟の昇段審査会において延べにすると約1500名以上が受審したと考えられる。

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9)山本宅治先生の門下となる(昭和34年)
 東京都連盟創立の翌年、昭和33年5月に高知から大阪の大会に参加する船中に山本宅治範士と同船し、山本先生から居合の話を色々聞いていた。夜船である。夜も更けて同行の者たちは寝込んでしまったりウツラウツラとしている。大田先生もついウトウトとしてしていた。明け方にハットして目を覚まして山本先生を見てタマゲタ!!端然と膝に手を置き乗船した時のままの様に椅子に座っていて一睡もしていない様子だ。先生はこの時、師と仰ぐ人はこの人を置いて他にないと心に決めた。時に山本先生72歳、大田先生66歳であった。

 程なくして山本先生に入門を申し出て許された。香川の岩田憲一、高知の斎藤正、竹嶋寿雄の先生方が兄弟弟子である。以来山本先生が亡くなるまでの19年間に渡って師事した。東京から高知の山本先生のもとに毎年のように通い先生の稽古を見、且つ見てもらい非常に熱心に英信流の指導を受けている。また大田先生からは手紙で業の疑問を問合せ、それに対する山本先生からの懇切丁寧な回答の手紙が何通も残されている。

(追記)
 斉藤先生は60歳代(昭和30年代末か?)の若くして亡くなられた。山本先生は自分の後をと考えられていたので、大変に悲しまれていると大田先生は度々話をしている。
昭和35年の京都大会番組表で七段教士。
(尚、同姓同名で京都の先生の名前も載る)
斉藤先生の居合は大会での演武が映像に残る。その居合は大きな居合を抜かれている。


山本先生の稽古では岩田先生などと共に「大田、それは違う」と叱責も飛び、「それでは斬れん!」とだけしか言われない厳しいものだったという。しかし稽古が終われば山本師のお宅で岩田先生や斎藤先生と共に山本先生を囲み、居合の話や刀剣の自慢話等に花が咲いたそうである。
<京都大会での山本先生>
毎年5月の京都大会では、山本先生の宿へ自分の弟子達を伴い酒を持参して訪れることも恒例であった。
又、山本先生は大の相撲好きで、大田先生は場所毎に番付を手に入れ高知の山本先生のもとに送ったりもしている。正に「敬師弟愛」の子弟関係であったと言える。
先生は山本先生から英信流の免許皆伝を昭和38年に伝授されている。

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10)山本宅治先生
 居合道範士十段・剣道教士山本宅治先生は明治19年(1886)12月26日土佐市に生まれ、昭和52年(1977)3月3日91歳で亡くなっている。幼少の頃から武道を好み剣道を川崎善三郎と石山熊彦から、居合は大江正路の晩年七年間指導を受けている。山本先生は英信流十八代宗家穂岐山波雄が急逝した際には宗家継承の話しも有った。しかし福井春政先生とお互いに話し合い、十九代の継承を福井先生にと譲っている。数少ない大江正路の直弟子として高知はもとより四国各地、さらに東京や全国各地で、戦後の英信流居合道の指導に尽力された。

 大田次吉、岩田憲一、斎藤正の連名で山本先生が亡くなる十数年前に、墓石に「先生清廉剛毅導子弟温情懇切皆慕其徳」等と刻して師を顕彰している、この文面は正に山本先生のお人柄を表している。
この墓石は山本先生が亡くなられた後にお宅の近くに建立された。


山本先生2 山本先生3
<明治のお二人だ、正面からだと左写真の様に怖い顔でVサインなど出さない!>
(昭和51年)
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<岩田憲一先生の手記「懐かしい恩師の思い出」>


11)東京の居合道界の状況と交流(昭和20〜40年代)
 戦後の復活した居合道界は全国的に大きく分けると関西の英信流、関東の神伝流という2つの流れであった。
1つは戦後いち早く活動を始めた、大阪の河野百錬を始めとする英信流の組織「八重垣会」の隆盛があった。昭和25年に河野先生は英信流の二十代宗家を十九代宗家福井春政から継承されて、高知や四国内は元より関西以西では英信流が主流であった。
 
 一方関東では昭和31年に中山博道の神伝流が全剣連の居合となり広く行なわれていた。昭和33年に中山先生亡き後、その高弟達によって、流名を「夢想神伝流」と命名されたと聞く。檀崎友彰先生が継承者となっていた。
ただ一般には昭和40年前半ぐらいまでは、英信流や神伝流その他の各流派も、各地の武道大会などで全居連や全剣連と組織に関係なく、和気あいあいという感じで交流が行なわれいた。

 東京・新橋にあった東電道場で開かれていた居合の大会もそのような集まりであった。広く東日本の各流派が一堂に会した「東日本居合道研究会」である。
大会は年2回開くとしており、昭和40年4月17日の第17回大会の演武者名簿によると、兵庫と福岡からの遠隔地来賓を含めて145名が載っている。流派名は大森流、無双直伝英信流、田宮流、神刀流、神道幡蔭流、香取神道流、夢想神伝流、無外流の10流派が数えられる。

 このような交流の中で、大田先生は所属する全居連とは別に「大田居合道研究会」を発足させて活動もしている。先生も当然大田区剣道連盟に所属し剣道の稽古をしている。この研究会の名前の「大田」は大田区という意味である。組織を離れた形で大田区剣道連盟の人達に居合の指導をしている。

 しかし兄弟弟子で香川の岩田先生は全居連から全剣連に移り、全国的な全剣連と全居連という居合道の大きな2つの流れと混乱のなかで、大田先生も弟子に「どうしたら良いと考えるか?」と問うたりもし、苦悩していた時期である。

 当時、大江正路直門で福井の野村条吉先生から大田先生へ宛てた手紙がある。それには業の解説の末尾に、野村先生も北陸地区における全剣連の隆盛に対して、全居連の自分は「まあぼちぼちと歩いていきますよ」と居合道界の混乱に対する慨嘆が読める。


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12)奥居合の指導(昭和34年頃)
 そのような関東の居合道界において昭和34年頃、大田先生が神伝流など剣連の人達に英信流の奥居合を伝えている。

 英信流の業は修業の段階に従って
@大森流・正座之部の11本
A長谷川流・立膝之部の10本
B奥居合・座業の8本と立業の11本
最後の暇乞(いとまごい)は三種類有るので計21本と進み修得していく。

書道等と同様に所謂「真・行・草」などとも表現し、スピードも速くなりより実際に近い想定の形になっていく。従って「奥居合」はある意味で稽古を積み重ねて業を修得していく上で、当面は最終の目標とも言える。
この外にも「番外」や「早抜き」更に各種の「形」が有り、英信流の業の数は随分と多い。

 神伝流の祖と言える中山博道は、より身近に接する内弟子に対しては特に厳しく、普段は自身の稽古をを見ることを禁じていたそうである。中山先生自身は神道無念流・根岸信五郎の有信館に入門し、内弟子の頃に日本の財界の祖と言われる渋沢栄一や、慶応義塾を建学した福澤諭吉の居合を見ていると言う話がある。福沢は維新前は豊前中津藩の武士で、渋沢も武州深谷の豪農の出である。居合をやっていても不思議ではない。福沢は自身ではあまり人には話したがらなかったそうだが可也の達人だったそうである。

その後に前述のように剣道で大成した後、土佐の大江正路の居合を見。そして細川義昌と森本兎久身から英信流を習い、森本先生から皆伝を受けている。当然英信流の奥居合は修得していた筈である。しかし弟子には自身の稽古を見る事さえ禁じていたのでは、それを多くは伝えなかったと思われる。

中山先生の内弟子であった大村唯次先生の弟子の方達が根岸信五郎・中山博道・大村唯次の事跡を編した「幽芳録」がある。それには居合の業の解説としては、大森流・正座の「初伝」と長谷川流・立膝の「中伝」、それに中山先生が戦中に考案した「大日本抜刀法」のみが記述されている。

 大田先生も「中山先生は奥居合をゴク特別の人以外には教えナンダ(なかった)。だから神伝流の人は奥居合をヨウセン(やらない)のだよ。」と話している。従って当時関東では英信流の人以外には奥居合の演武を行なっていなかったようである。大田先生の奥居合の演武を始めて見て「自分で勝手に作った居合をやっている。」とささやく剣連の人さえいたそうである。

 こんな事も有り大田先生が奥居合の講習会を開きましょうと言う話に、是非お願いしますと言う事になった。上述の東日本居合道研究会の主だった30名余り人達に対し、「これはあくまでも私が習った英信流の奥居合です。」と断り指導をした。「長谷川流奥居合の手引」という数ページのガリ版刷りの手引書を使い、数日間の講習会であった。

この講習会が終了した時「アー、これなら知っていた。」と言う人がいたそうだ。「でもその人が奥居合をやっている所を見たことがない。」と先生は笑ってこの講習会の時のことを話している。その時に知っていると言った人も、何処かで見た事はあるがその業が英信流の奥居合であることは知らなかった、という事であろう。

 最近は居合を始めて一年経つか経たないかで奥居合のカタチを練習している人がいる。それを見ている指導する人も、特に注意するでもない光景を見ることがある。早く業の数を覚えたいと考えるのは人情でろうが、居合の修業の道筋からは外れることであろう。
大田先生はまだその域に達していない弟子が、見様見真似で奥居合の稽古などをしていると「そんなことをするんじゃない!」とたしなめていた。

 それはさて置き、多分この実質的に奥居合の業を関東に伝えたという事は、古い門人以外には殆ど知られていない。しかしそれは大田先生の隠れた功績の一つであろう。
岩田先生もこの事について、もっと世に知られるべき事だと高く評価されている。


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13)隆盛と発展(地区・支部の参加と誕生)
 10人余りで出発した東京都連盟は年を追うごとに会員も増え大きく発展した。稽古場は蓮沼中学の体育館に移っていた。蓮沼だけでなく遠方から通っている弟子達がその地元で、東京都連盟の支部として居合の稽古と指導をする事も認めるようになっていた。
また、直接の弟子以外にも他流派の人達や英信流の他道場などの人達が、東京都連盟の地区という形で参加している。
 手元に残る「東京都居合道連盟会員名簿」でその推移を追ってみる。


<昭和41年4月>名簿に記載される会員数57名。
創立時以来の会員とその後に入門した門人の他に、当時は稽古場が中学校の体育館であった関係で14名の中学生の名前が見える。

<昭和44年9月>会員数115名。
城西地区として、大森曹玄を代表とする無外流の(12名)が参加している。大森先生は中野・高歩院の住職であった。剣道のほか杖道の名人でる。居合の段位を東京都連盟で行なわれた初期の昇段審査会で受審した。大田先生とは以来、知己の関係である。「剣と禅」等の数多くを著しており、後年は花園大学の学長も勤められた禅の世界で高名である。

城北地区(明武館)として、伊藤兼久を代表に豊島区の明武館から23名が参加している。当時、東京では数少ない戦前から英信流の居合をしていた道場だ。
<明武館>

他に城北地区(印刷局)として弟子の小勝雅範が代表で、勤務する紙幣などを印刷している北区の、滝野川印刷局(10名)でも稽古をしている。大田区と北区は東京の南の端と北の端である。上述した直接の弟子が指導することを最初に認められた道場である。


<昭和51年3月>会員数184名。
後述するがこの年に全居連の関東地区連盟が発足している。地区が支部と名称を替えて6支部になっている。

特に前年の昭和50年10月に川久保瀧次範士の三多摩支部(47名)の参加があった。
川久保先生は明治29年長崎県に生まれ、昭和60年12月に89歳で亡くなられた。その端正なお顔立ちと同様の端正で流麗な居合を抜かれた。大変几帳面で筋を通すご性格であった。川久保先生は自身で生い立ちから、剣道に始まる武道暦、長い軍隊生活の軍歴、居合道の修行歴などを「我が剣のあゆみ」として原稿が残されている。それを読むと先生の居合道史も一目瞭然というぐらいに、実に詳細にその一生が纏められている。戦前に神伝流の居合を習い、戦後長崎県で宇野又二門下の坂上亀雄から英信流居合を習った。河野先生の八重垣会にも参加し、その後に宮城県仙台市で宮城県連盟の会長をされた。

昭和46年に東京の小平市に転居された。そして三多摩地区の会長に就任された。
東京都連盟へ参加するに当たっては、三多摩地区の内部にも異論があったそうである。
太田先生も同じ範士である川久保先生に対して「東京都連盟とは別に、三多摩連盟にされてはどうか?」と話されたそうである。それに対し川久保先生は「三多摩地区も東京都内です。東京都連盟に所属することが筋道です。」と譲らなかった。名利を求めず筋を通す先生の姿勢を現す話である。
川久保先生 大田先生とは川久保先生が全居連に参加された昭和41年以降の知己と想われる。年齢は川久保先生が4歳若い。しかし陸軍戸山学校に在籍したこと、シベリア出兵にも参加していたこと、など軍歴に共通する所が有るので意気投合する所があったのではないか。その上、川久保先生の誠実さである。大田先生とは俗に言うウマが合ったのではないか。後に川久保先生は大田先生の葬儀委員長を勤められた。
<川久保先生の居合>

<昭和57年12月>。会員数は235名。(小中学生12名を含む。)
蓮沼の大田先生の元を本部とし、下記の14支部でそれぞれ稽古が行なわれている。
名 称 代表者・(指導者)
本部 大田次吉
滝野川支部 小勝雅範
赤坂支部 松浦剛
綱島支部 木下雅義・(落合忠男)
自由ケ丘支部 鬼原弘義
川崎支部 大沼陽一
府中支部 佐藤清・(西知彦)
銀座支部 中屋建興
総合警備支部 村井恒夫・(山口克夫)
柏支部 棚橋雄平
ここまでが直接の弟子たちが先生の許可を得て、それぞれの職場や地域で稽古をしていた支部である。

名 称 代表者・(指導者)
三多摩支部 川久保瀧次
杉並支部 高橋大
大森支部 前橋節夫
前田支部 前田善太郎
豊島支部 河西二郎
以上が都内各地から全居連・東京都連盟に参加した道場やグループである。

僅か10名余りから始まった東京都連盟が、このような大きな組織に発展した要因を考えると、先ず東京という日本一人口の多い地域であること。大田先生が東京の全居連組織を作り上げてきてその理事長であり続けていたこと。そして先生の人柄に人が集まったということが言える。

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14)武道大会の演武
 毎年5月の京都大会はもとより、先生は全国各地の武道大会に数多く出場している。
手元に残る資料や記録を繰ってみると早くは
S36/10/18の「七回全日本古武道大会・靖国神社大会」の写真に先生の姿がみえる。
S37/8/7の「古武道名人の会」(長崎)等に参加している。

その中で昭和44年9月21日、全日本古武道大会・福井大会で詰合之位(つめあいのくらい)を演武をした。打太刀を範士八段大田次吉、仕太刀は教士七段白石五郎で演武し、解説を落合忠男によった。戦後において公開の演武大会等で、真剣を使い火花の散る詰合之位の演武が行われたことは、稀有のことであったろう。先に書いたように大正14年大江正路を訪ね居合形を見せてもらい「あんな馬鹿なことが有るか!!」、と感じた刀の刃と刃を合わせることをこの大会で自ら行なったわけである。前述したように古武道の居合は剣道とは違い、
「先と先の取り合い」
であることを示そうとしたのかも知れない。後述するが先生は後の昭和55年に「土佐英信流」としてこの詰合之位の解説書を出版している。



    <大田先生と白石五郎の真剣による組太刀の演武>
    「大田先生は真剣でも全く力を抜かない」と白石は語る
       昭和47年11月、福井春政十九代宗家追善大会にて



居合神社 第一回の居合神社参拝奉納演武
昭和46年9月に山形県楯岡の居合神社で奉納演武を行なった。門人一同と東京都連盟の顧問であった刀剣鑑定家の三田光剣先生、同行を希望された中村泰三郎先生を含め総勢26名の居合神社行であった。東根温泉に泊まり、全員が古い昔の社殿内で奉納演武を行なった。
<居合神社旧社殿前にて>
(昭和46年9月)


<社殿内での奉納演武する大田先生>

居合神社3  第二回の参拝奉納演武
昭和50年9月に行なわれた。大田門下の滝野川、綱島、自由ヶ丘、府中の各支部道場も参加し総勢50名と大人数の参拝となった。そのため社殿での奉納演武は酒井p一・落合忠男・山口克夫の3名が代表で行った。そしてその他全員が近くの農林高校の武道場をお借りして奉納演武を行なった。
天童市内の瀧野湯ホテルに泊まり、将棋の駒作りを見学したり、当時は東京では珍しかった洋ナシを八百屋の店先で食べたリと楽しいものであった。
地元居合道連盟に杉並支部の高橋光男先生の父君、今野与之助先生が居られてお世話になった。今野先生が小茄子の漬物等を態々帰りの車中に届けて下さり、舌鼓を打ったりと記憶に残る楽しい遠征であった。
居合神社4


 又、東京都連盟としても多くの大会を催している。
昭和48年9月16日「全日本古武道東京大会」を開いた。東久爾稔彦名誉総裁を戴き、英信流二十代宗家河野先生を始め全国の各種武道家が集まる大きな大会となった。居合道はもとより、剣道、銃剣道、薙刀道、日本少林寺、香取神道流・太刀術・棒術・薙刀、空手道、合気道、柔道等の各種武道が演武された。

 この時に打太刀・大田次吉、仕太刀・白石五郎により英信流居合之形の演武が真剣を使い行なわれた。刀の刃と刃で斬り結ぶので火花が激しく飛び散り、その演武の様子を弟子達でも始めて見る者が多かった。

 更に昭和53年(1978)11月19日には大田区民センターで「創立25周年記念・全日本古武道東京大会」は東京都連盟として開催した最も盛大な大会であった。再び東久爾稔彦名誉総裁をお願いしての大会であった。
この大会でも居合道、剣道、空手道、香取神道流・太刀術・棒術・薙刀、合気道、薙刀道、銃剣道等の各種武道が、全国から集まった先生方により演武された。大田先生の武道界における交友関係の広さを表している。

 この大会も無事成功裏に終了した。しかし事務局として準備に当った落合忠男・山口克夫・東瀬啓二等の苦労は今も語り草になるほど大変であった。それは大田先生から出る意向と指示が大会の直前まで目まぐるしく変更になったからである。先生の言い出したら後に引かない頑固オヤジの面が強く出た一場面であった。創立25周年と言うのも東京都連盟の創立が昭和32年なので計算が合わない。これも頑として先生は25周年と言う。もしかすると先生は全居連の創立25年目を意識していたか、又は勘違いをしていたのかも知れない。勿論その様な事があっても腹を立てて、モウ辞めたなどという門人がいる訳ではない。先生の人徳の為せる業というところであろう。

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15)右手が動かなくなる(昭和49年)
 昭和49年(1974)、82歳のある日から先生の右手が効かなくなった。右手首から先が自由に動かず力が入らない。刀は勿論筆さえも握れなくなった。八方手を尽くして治療を試みた。弟子で医師の村木毅に紹介された専門医の診察を受けた時の話だ。机に右肘を置き拳を上にして立てた腕の先をその医師が持ち「手前に引いてみてください」と腕の力の入り具合を調べようとした。大田先生がグット力をいれて手前に引き込むと、腕を押さえていたその医師が机のこちら側に引き寄せられるようになったそうである。医師は「流石に武道で鍛えた人は違いますね!」と苦笑いをした。つまり腕力は全く異常がなく握力だけが全然力が入らず思うようにならないとい症状であった。

結局治療の効果が出ず、ついに痺れを切らした先生は「もう病院はいい!自分で直す。」となった。板にゴムチューブで手のヒラを縛り付けるような無茶とも言えるようなことや、弟子には言わずに木刀を振る練習など努力をした。しかしついに刀を握れるまでに回復することは無かった。

 日頃先生は「俺は体が衰えて自分の居合が出来なくなったら、京都大会でも演武はしない。」と言っていた。それまで先生の居合を見てきた者達にとっては、この突然手が効かなくなり居合が出来なくなってしまったことが、先生が更に高齢になり所謂「枯れた業」と言われる居合を見ることがなく、その大きな業だけを記憶に残すことにもなったとも言える。

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16)国際武道院への参加(昭和50年)
 弟子の松浦剛がアメリカ大使館で柔道の指導をしていた関係で、国際武道院(以降、武道院と記す)に所属していて紹介した。前の武道院理事長が伊藤四男(かずお)であった。伊藤先生と大田先生は柔道の三船久蔵の同じ門下で先生が日体在学時からの知り合いであった。そこで話はトントン拍子に進み、新たに武道院に大田先生を部会長とする居合道部会が創設され弟子一同と共に参加することとなった。

 武道院の前身は戦後占領下の講和条約が発効した昭和26年、柔道の三船久蔵・伊藤四男、剣道の中山博道・高野弘正、空手道の大塚博紀等が武道大会の開催を計画した。そしてその翌年の昭和27年(1952)2月に日比谷公園で「日本国民健康会」という名称で開催された大会が前身である。その名称からも想像されるように当時の日本はまだ武道が思うように出来ない占領下であり、この大会は戦後初の総合武道大会であった。

 昭和39年(1964)に「国際武道院」と改称し、現在は柔道、剣道、空手道、合気道、居合道、日本柔術、古武道の7部会があり、海外に武道の普及と指導を図っている。

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17)関東地区連盟発足(昭和51年)
 全居連も20年以上の歴史を経て大きく拡大した。その組織の整備をする目的で、全国を10地区とする新組織となった。東京都連盟も関東地区連盟の下部組織となり、大田先生が初代の関東地区連盟会長に就任し、併せて全居連の副会長にも就任した。
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18)「土佐英信流」の出版(昭和55年)
昭和55年3月、詰合之位を解説したの「土佐英信流」(ペリカン社・A5版159ページ)を著わした。
先生は当初弟子たちの本を出して下さいという言葉に、「本に書かれた事を読んで居合の業が判るわけがない。」、と消極的で中々首を縦に振らなかった。しかし多分誰も出していない詰合之位の解説書ならと、約1年間を掛けて出版の運びとなった。

中屋建興、三沢昭、杉浦薫、山口克夫、中田敏之、東瀬啓二等が編集・写真・演武・解説文などで先生を助けた。特に出版社に勤める中屋と杉浦の多大な努力と助けによる所が、大きかった。

この本の出版以前には弟子達の指導等の為に、各種の手引きや解説の小冊子がある。
@「居合道の心得」
A「無双直伝英信流(正座の部)」
B「無双直伝英信流(立膝の部 )」
C「長谷川流奥居合の手引き」
D「英信流詰合之位」
E「居合道学科問題集」
等である。
「居合道の心得」は初心者が最初に見る手引き書である。全居連の制定刀法5本の解説、居合の歴史、刀装の名称、基本的な所作と心得が書かれていて、審査の学科問題も多くここから出題される。初心者の頃には皆お世話になる手引きである。
「長谷川流奥居合の手引き」は、前述した昭和30年代の「大田居合道研究会」として書かれ、東電道場で奥居合の講習の時に使われたものである。

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19)宗家高知返還への執念
 大田先生が抱いていた英信流宗家を土佐に戻さなければならないという強い思いについて敢えて記す。それはいわば先生の居合の後半生における執念だったともいえるからである。宗家を土佐に戻すという思いは福井春政、山本宅治等の十七代大江正路直門の先生方はもとより、土佐居合道界全体のものであった。

初期の動きは昭和34年にあった。土佐側の次代宗家候補を西川倍水として返還の話し合いを行うため香川県善通寺で行われた大会に関係者が集まった。しかしなんと西川先生が大会の会場で演武を見ている最中に倒れられて3日後に急逝される。親友西川先生の突然の死に接し先生の悲しみは大きかったであろう。弟子にも度々その話をしている。併せて宗家土佐返還の希望と事情を知る先生はその思いを強くしたと考えられる。結局、西川先生の死によって二十代河野宗家から二十一代宗家を土佐へ返還される事はなかった。

尚、西川先生が倒れられた時に、その目の前で演武をされていたのが岩田先生であったそうである。

その後、昭和49年の5月21日、河野百錬二十代宗家が亡くなり大きな動きがあった。8月8日付けで「無双直伝英信流第二十一代宗家決定に関する通牒」と言う文書が流された。大江正路と穂岐山波雄直門の山本宅治、森繁樹、田岡伝、中川稔、藤村米次、野村条吉の所謂英信流長老方の連名で、次期二十一代宗家に高知の竹嶋寿雄を推す事に関する賛否を問う内容であった。 この通牒は範士全員(英信流の範士のみか?)に送られたと思われる。当然のこと先生は竹嶋先生に賛成したはずである。

 しかし結果は福井虎雄が二十一代宗家の継承者となった。この宗家継承の経緯についてはここに記すだけの資料を持たない。新宗家が決した後に大田先生は、福井宗家を強く押した池田昂淳に対し「7年ゾヨ」と7年後には宗家を土佐に返還することを条件に承知している。この時には、全国で他にも宗家を名乗る人が複数出たり、全居連から離れて新組織を結成するなど、全居連の組織的にも大きな混乱が起きた時期である。

 その後先生は機会がある毎に福井宗家に対して宗家の土佐返還を迫っている。福井春政、山本宅治の両先生はすでに亡く、福井宗家に向かって直接このことを言える人は他にはほとんど居なかったのだ。

 それ以前の昭和46年竹嶋先生は十九代宗家福井春政が亡くなるときの意を受け、高知において傍系二十代宗家を継承していた。そして竹嶋先生は全居連を離れ全国居合道に所属し別に活動をしていた。そのこともあってか継承されるべき竹嶋先生本人も福井宗家の元を訪れて来ない、という理由等で埒が明かない状態が続いた。そのため大田先生が時として福井先生の宗家継続を認める発言もあったという。
(竹嶋先生の最晩年に高知のお宅に伺った。その際にどうして福井宗家の元を訪ねなかったのか、と直接伺った。すると「小林君、僕が福井先生の後を継ぐという形は出来ないロー」と言われた。私はその居合の違いを思い確かにそうだナァーと思った)

 17年後の平成4年(1992)6月28日に英信流二十二代宗家は池田隆先生が継承している。そして平成12年6月13日85歳で前宗家・福井虎雄先生が亡くなった。

 この一連の英信流宗家継承問題については、戦後の混乱期の時代背景と、河野先生が初めて英信流の解説書を世に出し、英信流発展に大きな功績を残した業績が認められての二十代宗家の継承であった。だが十九代宗家の福井先生は高知から大阪の河野先生に、自分が宗家を譲ったことを亡くなるまで悔いていたと聞く。

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20)東京都居合同連盟のその後(昭和59年)
 大田先生は昭和59年10月23日、92歳で亡くなった。
11月25日、東京中野の宝仙寺において葬儀委員長・川久保瀧次により関東地区連盟葬が執り行なわれた。

 先生自身が明確に後継者とその後の方向を示していなかった。そのため昭和60年10月6日に開かれた「一周忌追善武道大会」を待たず、弟子達が一致団結をした東京都連盟としての組織的な活動は終焉したと言える。その前後には大きく2分した東京都連盟を継ぐグループと全居連を継ぐグループの再度一体化を図ろうとする試みもあったが、それは成らなかった。
又その後に2分したグループから更に、高知の竹嶋先生に師事するグループが誕生した。

そしてこの18年間で紆余曲折もあるが、多くの大田先生の弟子達は現在もそれぞれの立場で居合の修行を続けている。

現在活動している大田門下は主に以下となっている。

@「東京都居合道連盟」は芹沢弘昌が指導し、日本武道国際連盟に参加して地元大田区で活動するグループ。

A山口克夫・東瀬啓二・落合忠男等により関東地区連盟・東京支部としての全居連を継承し国際武道院でも活動しているグループ。多くの範士と高段者を輩出し、現在は落合忠男が支部会長である。

B川嶋登が初代会長となり「全国居合道高知県連盟・東京地区」として、高知の竹嶋先生の東京での門下となったグループ。現在は杉浦薫を会長として活動している。
尚、竹嶋先生は平成7年に21代宗家を村永秀邦先生に継承された。又、平成8年には流名を「無双直伝英信流」から「土佐直伝英信流」としている。川嶋登は竹嶋先生から平成12年に免許皆伝を印可されている。

C大沼陽一、棚橋雄平など旧川崎と柏支部が独自で活動するグループ。

D下原康男・小林士郎・山本隆歳・高橋賢治など特別なグル−プには属さず独自に活動する人達。

 尚、国際武道院の大会は大田の弟子たちが、それぞれの組織の枠を越え一堂に会して演武をする場にもなっている。
                                   −終わり−

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